金城一紀ロングインタビュー 2001年11月号

インタビューロングバージョン

更新日:2013/8/19

作家前夜――
ひたすら読むことに専念
初めての執筆は25歳のとき

 「20歳の時に小説家を志しました。その時点では時が熟していないというか、実力不足だと判断し、ひたすら小説を読むことに集中していました。100人の人が読んで99人が面白いというような作品を最初から目指したかったんです。25歳の時にデビューを前提に新人賞に応募するために小説を書き始めました。習作とかはほとんど書きませんでした」


advertisement
 昨年、『GO』で直木賞を受賞した金城さんは、デビューまでのいきさつをそのように語る。エンターテインメント系の新人賞に応募し最終選考に残るも、受賞までには至らない時期が4年ほど続く。
 「純文学の新人賞に応募する気は最初からありませんでした。自分が読んで救われた作品にエンターテインメントが多かったということと、読者に楽しんで読んでもらえる起承転結がはっきりしている起伏のある物語を目指していましたから。

 新人賞には5回ぐらい落ちました。いま考えると文章が硬かったですね。固有名詞に対するこだわりもありました。普遍的な物語を書きたいという気持ちがあって、流行的な固有名詞をあえて避けていました。同時代的な固有名詞が氾濫した作品の有効性を感じ、エンターテインメントで書くなら時代性を刻印すべきだというふうに気持ちが変わって、それまでの自分の中の規制を取り払って書いたのが『レヴォリューションNo.3』です」

『レボリューションNo.3』
そのタイトルに込められた意味

 『レヴォリューションNo.3』の主人公は『GO』と同じく高校生。村上龍『69 sixty nine』や山田詠美『ぼくは勉強ができない』といった高校生小説の系譜につながる青春小説だ。

 「これからの日本には、多民族的な価値観が必要になってくると思うんです。僕なりの切り口で書き込めるのは外国人の視点から見た日本というテーマで、そういう視点から新しい学園小説を書こうと思ったわけです。書き古された学園小説というジャンルに新しい視点を持ち込むときに、多民族的な集団がオチコボレ校で“パラダイス”を作るというプランがリアリティを帯びてきました」
 新宿にある「典型的オチコボレ男子高」に通う語り手の「僕」と仲間たちは『ザ・ゾンビーズ』というグループを結成し、良家の子女が通う女子高の学園祭に潜入する計画を立てる。一昨年、去年とその計画は失敗し、3年目の今年、新たな作戦を立てて彼らは学園祭を“襲撃”する。タイトルの意味はそこに込められている。
「もう一つの意味があるんです。ビートルズのホワイト・アルバムに『レボリューション1』と『レボリューション9』という曲があるので、『レヴォリューションNo.3』があってもいいのではないかと思って、タイトルを付けました。

 この作品では学生運動のパロディをやっています。彼らは『正面突破』ならぬ『正門突破』を敢行しますし、『ええじゃないか作戦』はジグザグ行進をパロっています。全共闘世代の編集者が、すごく面白かったといってくれました。かわいい女の子をゲットするためとか、友達のために全力を尽くすというような愚直なモチベーションこそが、現代において革命たりうるわけです」

 本書は、小説現代新人賞受賞作の「レヴォリューションNo.3」に二つの短編を加えた連作として成っている。第2作の「ラン、ボーイズ、ラン」で高校を卒業する『ザ・ゾンビーズ』だが、3作目の「異教徒たちの踊り」では、過去の『ザ・ゾンビーズ』の活躍がエピソードとして語られる。趣向が凝らされた構成だ。
 「『ザ・ゾンビーズ』のレヴォリューションは、『ラン、ボーイズ、ラン』で終わっています。彼らは必要なときに集まって、必要なときに襲撃して、散っていく連中なんです。彼らは群れないんです。だから、高校卒業後の彼らを書くことはできないんです。3作目では47人のメンバー全員が参加していません。彼らのレヴォリューションは襲撃している時だけですから。メンバーの一部の人間がストーカーをめぐる事件を解決する3作目は余話的作品ですね」

自己の体験を
小説化するときの技術

 主人公の「僕」を始め、中学時代に民族学校に通っていた舜臣<スンシン>、日本とフィリピンのハーフのアギー、あらゆるツキから見放されている山下、体育会系の暴力教師マンキー猿島など、作品には魅力的な人物が多数、登場する。
 「僕が通った高校には作中人物のモデルとなるような人がたくさんいたんです。被爆された先生やマンキー猿島のような先生もいて、社会の縮図だなと思いました。偏差値社会の中では吹きだまり的な場所だったかもしれないけれど、個性のあるやつがいっぱいいて学校生活は楽しかったんです。それを自然に取り込んだだけです」
 その中でも重要な人物がヒロシだ。彼は難病で亡くなるが、メンバーはヒロシのためにアクションを起こし、彼らのレヴォリューションを成功させる。さらにそこには、作者の友人の死をめぐるオブセッションからの自己解放という個人的な思いが投影されている。
「僕は小説の中に神を描いて殺してしまうんです。それに触発された連中が、死を通して自分のアイデンティティを確認する、という構造は確かにありますね。

 20歳の時、15年来の友人が亡くなったことが本当にショックでした。死の手触りをリアルに感じました。おっしゃる通り、死というオブセッションからの自己解放として小説を書いている部分もあります。死に向かって生きる存在としての人間の不条理や、死の前に人間は平等だからこそ人間は自由であるべきだというような主張を、自分の小説のテーマとして今後もいろいろな形で提出していきたいと思います」

 死の問題を含めて、金城さんの作品からは自伝的要素を多く読み取ることができる。いっぽうで、プライベートな身辺情報をフィクションとして組み込むための技術が必要だと、金城さんはいう。
 「自伝的な要素をダイレクトに反映させるとナルシズムが強い物語になってしまいます。自分のもっている情報の中で書くという意味において、どんな作品でも作者の自伝性は反映されると思います。ナルシズムをどうやって消去していくか、という部分が重要です。ユーモアを取り込むのは一つの方法です。
 『GO』の主人公の杉原は、朝鮮籍から韓国籍に変えて日本の高校に進学したという僕の年譜的事実を踏襲していますが、その中で起きていることはまったく違います。ポイントとなる事実は同じであっても、その狭間を埋めるエピソードはすべてフィクションです。こういう人生だったら面白かったのになあ、ということを書いているという言い方もできますね。実際に父親からボクシングを習いましたが、『GO』の父子の対決みたいなエピソードはありません。自分の人生を利用してホラを吹いているということですね(笑)」

小説家として目指すもの

 “読むこと”によって作家的素養を育て上げてきた金城さんだが、ブッキッシュな性格づけは作中人物にも及ぶ。作中人物は様々な本を読み、本の一節を意味あり気に引用する。

 「他の作品からの引用がある小説を読むのが好きだったんです。そういうことを自分の小説でもやってみたいと思ったんです。ある本の一部が効果的に引用されていたりすると、その本を全部読んでみたいとか思いますよね。僕はそういう形で自分の読書の世界を広げてきました。北村薫さんが『空飛ぶ馬』のあとがきの中で、『小説を読むのは一度しかない人生への抵抗である』というようなことをおっしゃっています。すごくいい言葉だと思います。小説を通してそういう体験を読者にしてもらいたいと思っています」

 コリアン・ジャパニーズという自らのバックグラウンドを前面に押し出した『GO』。多民族的な若者のグループを高校生小説の枠組みで提出した『レヴォリューションNo.3』。そこには、従来の在日文学の枠を超えた新しい小説への取り組みがある。

 「これまでの在日文学の閉鎖的な感じが好きではないんです。アイデンティティの危機があったときに在日文学を集中して読んだんですが、救われなかった。僕と同じような経験をする若い人が読んで、在日の問題から自由になれるようなものを書いていきたいんです。
 『GO』は僕にとって在日文学解体のイントロ的作品です。
 そういう意味で、一つのジャンルにとらわれないさまざまな要素が混じった作品を書いていきたいです。坂口安吾や福永武彦のような超ジャンル的な作家になりたいですね。在日の主人公があまり登場してこなかったSFやミステリを書いて、在日文学を解体していきたいと思います」