この夏、文庫片手に寝台列車で行く  内田百閒『阿房列車』をめぐる旅

ダ・ヴィンチ 今月号のコンテンツから

公開日:2015/7/8

『阿房列車』を追体験する列車旅に出発進行

 旅行に行くときは必ず文庫を1、2冊バッグに忍ばせる。東南アジアを旅したときは金子光晴の『アジア無銭旅行』を読んでいたし、先日、北海道にバイク旅をしたときは花村萬月の『自由に至る旅』(大半が北海道の話)を読んだ。結局1頁も開かずに帰ってくることもあるのだが、旅に出る前に心の旅用の本を見つくろうのもちょっとした楽しみだ。
 できれば旅先に関わる本がいい。旅先でその土地を舞台にした本を読むと、情景が目に浮かんで臨場感が格別なのだ。作者の視点に感情移入して旅が意味ありげに思えてくることもあれば、電車の待ち時間や雨で旅館に足止めをくらったとき文庫が旅の友になってくれることもある。旅先で読む本は、やけに心に沁みこんでくるというのもある。
 今回旅に持って行く文庫は内田百閒の代表作『阿房列車』である。明治22年生まれの内田百閒は今でいう元祖「鉄っちゃん」のような人だった。本書は昭和25年から数年に渡る列車旅をつづった旅行記だ。ただし今回は、自分の行き先に合わせて本を選ぶのではなく、ダ・ヴィンチ編集部K氏の依頼で『阿房列車』をめぐる旅をしようという企画である。旅行記を追体験するというのも面白い旅になるかもしれない。

●用事がなければどこへも行ってはいかないと云うわけはない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う。

(「特別阿房列車」より)

 『阿房列車』の有名な冒頭の一節だ。用事があって行くのは “移動”だが、用事もないのに行くから“旅”になる。気分良く列車旅がしたいから、行きは一等車である。帰りは「帰る」という用事があるから三等車でかまわない。当時の一等車が30円、二等車が20円、三等車が10円だとしたら、行きも帰りも二等車に乗るのと変わらない。ならば行きは一等車で贅沢を満喫し、帰りは三等車で庶民的な風情を味わおうというのが百閒流の列車旅なのだ。
 これには予算の都合もある。夏目漱石門下で、後輩の芥川龍之介に慕われた文学界の重鎮でありながら、金の面では不遇であった。なにしろ『阿房列車』の最初の章は、旅費の金策のため知人に借金を頼みに行くところから始まるのだ。

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●私の金でなければ人の金かと云うに、そうでもない。貸してくれる方からは既に出発しているのでその人のお金でもない。丁度私の手で私の旅行に消費する様になっている宙に浮かんだお金である。これをふところにして威風堂々と出かけようと思う。

(「特別阿房列車」より)

 用事もないのに行く旅で、人に金を無心し、威風堂々と一等車に乗るとは恐れいる。以降は百閒先生と呼ばせていただきたい。当の本人は「先生」と呼ばれることを好まない人だったが、旅の大先輩という敬意を込めて、百閒先生と呼んだ方がしっくりくる。
 百閒先生は北は青森から南は鹿児島まで全国津々浦々を旅している。それをなぞるとしたら、どこへ行ってもかまわないわけだが、『阿房列車』計16回の旅のうち5回も熊本県八代に訪れていることから、まずは八代を目指すことにした。

魔法瓶に熱燗入れて、寝台特急で一献

●用事がないと云っても、汽車が著いて、宿屋へ行くのだったら、それだけでも用事である。矢張り何となく気を遣う。しかし今夜は車中に寝るのである。だからいい加減のその時間になるのを待つばかりで、全くのところ何もする事がない。

(「雷九州阿房列車 前章」より)

 用事があると窮屈だ。百閒先生がわざわざ遠くまで行くのは、できるだけ長く列車に乗っていたかったからだろう。同時にそれと同じくらいの楽しみが、お酒である。寝台特急で一献するのが百閒流の列車旅。この二つが掛け合わさるから無性に列車旅に出かけたくなるのだ。これを見習って勝手気ままな飲んだくれの旅をしようと思う。
 しかし、現代は新幹線ができたため、『阿房列車』に登場した寝台特急はほとんど運転終了になっている。列車に乗るのが目的なのに、すぐに目的地に着いては面白くない。だから今回の旅では新幹線には乗らないことにした。そうすると東京から西に向かう寝台特急では、新幹線が開通していない山陰地方を走るサンライズ出雲のみ。百閒先生も「松江阿房列車」の章で大津駅から「いずも」に乗車している。
 東京駅22時発。車中で一献するにはおあつらえ向きの時間だ。

●それでこれから始めようと思う。今晩の晩餐の用意には、二本の魔法瓶の外に、有明屋の佃煮と、三角に結んだ小さな握り飯とがある。

(「鹿児島阿房列車 前章」より)

 百閒先生は魔法瓶に熱燗を入れて旅に持ち歩いた。現代のサンライズ出雲は夜間発の便であるため、食堂車もなければ車内販売もない。だから車中で飲みたければ自分で用意するしかない。これについては準備万端。魔法瓶には熱燗が入れてあるし、佃煮も買ってある。
 本日の宿は7560円のB寝台個室「シングル」だ。個室だから周囲が気にならないし、窓が大きくて眺めもいい。車窓を眺めながら一献するには最適である。

 ちなみにサンライズ出雲には寝台料金がかからない「ノビノビ座席」もある。ためしに見に行くと、バックパッカー風の外国人や山ガール風の女性客がくつろいでいて、ドミトリーのような雰囲気だ。『阿房列車』でいうと三等車にあたり、これはこれで旅心がくすぐられた。
 列車が動き出した。さっそく佃煮を肴に熱燗で一杯やることにする。見慣れた都会の景色が車窓からはまた違って見えた。これから遠くに行くのだと思うとわけもなく感傷的になる。なるほどたしかに旅情をかきたてるのに熱燗はちょうどいいかもしれない。ほどよく酔いが回ってくると、列車の音がループするBGMのように聴こえだした。

●線路の継ぎ目を刻んで走る歯切れのいい音が、たッたッたッと云っていると思う内に、その儘の拍子で、「ちッとやそッとの、ちッとやそッとの」と云い出した。
 汽車に乗っていて、そう云う事が口に乗って、それが耳についたら、どこ迄行っても振るい落とせるものではない。(中略)
 ちッとやそッとの、ちッとやそッとの「山系君」
「はあ」
 ちッとやそッとの、ちッとやそッとの「お酒はどうだ」

(「鹿児島阿房列車 前章」より)

 たしかにそう言われると列車の音が「ちッとやそッとの」と聴こえてくるから面白い。この「山系君」というのが、百閒先生の旅の友であるヒマラヤ山系こと国鉄職員の平山氏である。寡黙でつかみどころのない人物だが、だからこそ百閒先生のジャマにもならず、いい相棒になった。二人の意味があってないような所在ない会話が『阿房列車』の醍醐味でもあるのだ。
『阿房列車』を読みふけるうちに、熱海を過ぎ、静岡を過ぎ、気づけば深夜2時を過ぎた。このままいくと旅の初日から徹夜の二日酔いになりかねない。窓のシェードを降ろしてようやく横になった。
 明け方、ふいに列車が止まって目が覚めた。外を見ると、朝靄に包まれたどことも知れない山中である。線路上の倒木撤去作業をしているというアナウンスがあった。そのため到着は1時間遅れとなったが、おかげでゆっくり二度寝することができた。これも列車旅ならではのことと思うと、なんだか得をしたような気分になる。

観光はせず、ただ車窓を眺めるのが百閒流の列車旅

 9時58分着の予定が11時を過ぎて出雲市駅に着いた。本来なら出雲大社に参拝したいところだが、ご当地のかに寿し弁当とビールを買い込んですぐに11:36発のスーパーおき3号に乗り込んだ。
 これを逃すと3時間ほど待たなければいけないこともあったが、百閒流の列車旅は観光をしないのである。なにしろ別府温泉に宿泊しながら温泉にも入らずに帰ってきたほどだ。あいにくの雨で出かけるわけにもいかず、ようやく温泉につかろうとしたところ豪雨のためお湯が砂で濁っていて入れなかった……という経緯なのだが、そもそも興味がないから百閒先生は意にも介さない。

●それならそれでよろしい。一つ仕事が省けたわけで、こうして所在なく休養する。温泉に来て温泉にも這入らず休養する。

(「雷九州阿房列車 後章」より)

 サンライズ出雲の乗客はみな出雲大社が目当てだと思っていたが、僕と同じようにすぐに山陰本線に乗り込む鉄ちゃんらしき男性が他にも2、3人いた。後になって納得したのだけれど、山陰本線は京都駅から幡生駅まで673.8kmを結ぶ在来線では日本最長の路線として鉄道ファンにも人気らしい。

 市街地を抜けると列車は海沿いに出て、しばらく人気のない白い砂浜が続いたかと思うと、山陰地方特有の赤い石州瓦の屋根が並ぶ漁村を駆け抜ける。

 益田駅から先は中国山地を走る山口線に入る。海の景色から一転して山の景色になって飽きさせない。鄙びた無人駅や長閑な山里の景色を眺め、あらためて思った。たしかに人で混雑した観光地であくせく動きまわらなくても、列車旅ならこうして座っているだけで景色が移り替わり、目の保養になる。退屈することなく、気づけば乗り換えの新山口駅である。

 新山口駅からは普通列車に乗り換えて下関駅へ向かう。車内は地元の学生でにぎやかだ。酔いが回ったらしく、うつらうつらとしていたらしい。学生が一斉に降りたのに釣られて乗り換えの下関駅と新下関駅を間違えて降りてしまった。飲むと眠くなってしまうから百閒先生も昼酒を控えたのかもしれない。

 次の列車まで1時間ほどある。時間潰しに駅を出て街歩きでもしようと思うが、新幹線開通後に発展した街らしく特に見るものもない。公園で一服してすぐにホームに戻った。間違えて降りなければ一生来ることのない街だろう。ピーカンの空、生温かい空気、人気のない駅前……こうしたどうということもない記憶が、旅から戻るとやけに鮮明に覚えていたりするから不思議だ。
 そういえば『阿房列車』でも列車に乗り遅れた百閒先生が国府津駅のホームで2時間待つ場面があって、印象に残っていた。そのときの会話が秀逸なのだ。

●「汽車に乗り遅れたけれど、だれに関係もなく影響もない。僕達自身の事としても、その為に何も齟齬する所はない。いい工合だ」
「何がです」
「長閑で泰平だ」
「はあ」
「乗り遅れと云う事が、泰平の瑞兆だ」
(中略)
「その間、こうやってぼんやりしているのか。まあいいや、ほっておこう」
「何をです」
「何も彼もさ」

(「区間阿房列車」より)

 渋すぎる。たしかに百閒先生が言うように急ぐ旅でもない。ホームで『阿房列車』をつらつら読むうちに次の列車が到着し、今度は小倉で博多行きの特急ソニックに乗り換えた。ローカル線から一転して、欧州の鉄道デザイン賞である「ブルネイ賞」優秀賞にも輝いたという最新鋭の特急列車である。すべるように列車は走り、夕過ぎ博多駅に着いた。これまでずっと漁村や山里の景色ばかり眺めていたから、大都市の喧騒がひときわ華やかに見える。これだけ目まぐるしく景色が変わるのも在来線の列車旅ならではだろう。

百閒が定宿にしていた熊本県八代の松浜軒へ

 翌日、いよいよ鹿児島本線で八代へ。「肥薩線0起点」という標識が目的地に着いたことを知らせる。なぜなら肥薩線は『阿房列車』でも再三登場する路線だからだ。駅裏に煙突がそびえ立ち、観光地といった感じでもない。地元の人には失礼かもしれないが、この何でもない感じが観光を好まない百閒先生の目的地に相応しかったのかもしれない。八代で百閒先生は松浜軒(しょうひんけん)という宿に泊まることを楽しみにしていた。

●松浜軒は二百六十余年前の元禄元年、八代城第三代城主松井直之が創建して今日に及んでいる。八代市は空襲を受けなかった。もと赤女ヶ池を森の在った所を伐り拓いたので、今でもお庭に赤女ヶ池が残っている。

(「長崎の鴉 長崎阿房列車」より)

 できれば泊まりたいものだが、あいにく今では観光施設として開放されている。だから今夜の宿は決めていない。地方都市では駅と中心街が離れていることがよくあるが、八代はまさにこの典型だった。土地勘がないから、たいした距離でもないだろうと思って宿がありそうな中心街まで歩くことにしたところ結局40分も歩くことになったが、見知らぬ街を歩くのも一興だ。昭和の面影を残す、どこか懐かしさを感じさせる町並みだった。ちなみに八代は演歌の女王・八代亜紀の故郷でもある。

 ホテルに一泊して、翌日、松浜軒を訪れた。今では車の往来が多い街の中心部に位置するが、当時はカラスと食用蛙の鳴き声が響く閑静な宿だった。百閒先生はほとんど宿から出ることもなく、昼間は庭の池を眺め、夜は遅くまでヒマラヤ山系と一献を楽しんだ。庭の片隅で『阿房列車』を開くと、ヒマラヤ山系とのとりとめのない会話が聴こえてきそうである。目的地に辿り着いたことを祝して、魔法瓶にわずかに残る酒を飲み干した。

文庫片手に気の向くままに旅をする醍醐味

 さて、これからどうしよう。百閒先生は『阿房列車』で5回九州を訪れ、熊本と大分を結ぶ豊肥本線、大分と宮崎を結ぶ日豊本線などくまなく列車旅をしているから、適当に乗車しても『阿房列車』の旅を辿れそうである。とりあえず駅に行って路線図を見ながら考えることにした。
 八代駅からは鹿児島方面に向かう山間ルートの肥薩線と、海辺を走る肥薩おれんじ鉄道がある。しかし、肥薩線は発着が2、3時間に1本で乗り継ぎもスムーズではない。鹿児島に入る頃には日が暮れてしまうだろう。鹿児島で一泊するのもいいかと考えたが、肥薩おれんじ鉄道の時刻表を見ると、待ち時間は40分ほどで、帰りの便も頻繁にある。
 肥薩おれんじ鉄道は海辺を走る風光明媚な路線として観光に力を入れている。区間の駅で乗り降り自由という2000円のフリーチケットで乗車することにした。JR九州の駅弁ランキングで3年連続1位に輝いたという老舗鮎屋の駅弁とビールを買い込み、準備は万端だ。

 列車を待つ間、『阿房列車』を開いた。この旅に出てから九州列車旅の章を順に読んできたが、ちょうど最終章の「不知火阿房列車」にさしかかっていた。この旅で百閒先生は小倉で二泊し、九州の東海岸を走る日豊本線で宮崎に行って二泊してから、再び日豊本線で鹿児島へ行く。そこから「きりしま」に乗り換えて肥薩線で八代へと向かうのだ。それもあって当初は肥薩線に乗ろうと考えていたのだが、前述のように時間的に無理があって肥薩おれんじ鉄道にした。
 しばらく走ると視界が開け、青々とした海が広がった。列車は海岸線の間近を走り、まるで海の上を走っているかのようだ。トンネルを抜け、港町を過ぎ、景色が次々と移り変わって飽きさせない。惚れ惚れするような眺めだ。

 区間最終駅の川内駅で降りて温泉でさっぱりしてから、再び肥薩おれんじ鉄道の八代行きに乗り込んだ。今度は風呂上がりのビールを飲みながら海を眺めようという魂胆である。行きと同じ景色だから、今度は『阿房列車』を読みながら行くことにした。するとこんな一節に出会った。

●海は阿久根を過ぎるまで続き、更に出水から又海辺を走って天草の遠望、不知火海の風光が車窓にひらける。しかし空は次第に曇って来た。曇って来たのか、曇っている空の下へ走り込んだのか、それはわからない。

(「寝台列車の猿 不知火阿房列車」より)

 行きのときに阿久根、出水という駅名に覚えがあったから、はっとした。肥薩おれんじ鉄道はもともと肥薩線だったのだ。新八代駅と鹿児島中央駅を結ぶ九州新幹線が開通したため、JRから民間の鉄道会社に経営が移管されたというわけだ。前に読んだときは地名に馴染みがなかったから印象に残らなかったが、今、目に映る車窓の景色はまさにこの一節のとおりである。これぞ文庫片手に旅する醍醐味だと思い、一人にんまりとした。
 その後、百閒先生は八代で定宿の松浜軒に泊まり、雨の中、車で八代沖の不知火(しらぬい)海を見に行く。自然現象で海が光る「不知火」が見られることで知られる海である。

不知火が出るのは八朔(はっさく)、即ち陰暦の八月朔日(ついたち)の明け方だそうだから、まだ半年も先の事で季節が違うのみならず、その日まで待ったとしても、夜光るものを昼間見に来たのでは見えるわけがない。だから不知火を見に来たのではない。不知火ノ海を見に来たのだから、底の浅そうな色をした海の面に、雨が降り注いでいるのを見て堪能した。

(「寝台列車の猿 不知火阿房列車」より)

 不知火が見られるという陰暦8月1日は新暦では9月13日にあたる。大学生ならまだ夏休み期間だから、百閒先生が果たさなかった不知火を見に行く列車旅というのも面白いかもしれない。たとえ見られなくてもかまわない。百閒流の列車旅は、どこへ行こうが、旅先で何をしようが、どこまでも自由なのだ。この夏、文庫片手に冷えたビールでも飲みながら列車旅に出かけてみるのはいかがだろう。何の用事もなく、気の向くままに行くことをおすすめしたい。

取材・写真・文=大寺 明