短編小説『記憶』角田光代 ヴァロットン作『ボール』より

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公開日:2014/6/6


 6月14日(土)から、東京・丸の内にある三菱一号美術館にて「ヴァロットン ―冷たい炎の画家」展が開催される。そこで、展覧会の開催を記念して、作家の角田光代さんに、ヴァロットンの代表的な3つの作品からイメージした3作の短編小説を書き下ろしていただいた。ここでは、そのうちの1編をご紹介しよう。

《ボール》1899年 油彩、板に貼り付けた厚紙 48×61cm パリ、オルセー美術館蔵
©Rmn-Grand Palais (musée d’Orsay) / Hervé Lewandowsky


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フェリックス・ヴァロットン●1865~1925年。スイスで生まれ、19世紀末から20世紀初頭のパリで活躍したミステリアスな画家。本展覧会はヴァロットンの国際巡回展であり、日本初の回顧展。油彩と版画による、まるで解けない謎のように重層的な作品群約120点を展覧する。



 

 彼女のうつくしさには理由がある。彼女は人に言えない秘密を持っている。その秘密が彼女をうつくしくしている。

 彼女には母親がいない。彼女がちいさいころに亡くなって、彼女は父親に育てられた。その父親は今はべつの家庭を持っている。彼女が十五歳になったときに結婚したのだ。その結婚相手と父親が、母が生きていたころから親しかったことも彼女は知っている。そのことを彼女は父に糾弾することはない。私はだいじょうぶよ、しあわせになってね、と彼女は父に言った。父は家を出て、それきり父から彼女に連絡はない。

 うつくしく成長した彼女はモデルになった。さまざまな服を着て笑ったり遠くを見つめたり、泣いたりだれかとキスをしたりする。雑誌にも、ショッピングビルの電飾看板にも登場するから、たいていの人が彼女を知っている。名前を知らなくても、顔は見たことがある。その仕事のはなやかさと、彼女自身のうつくしさのせいで、大勢の人が彼女のもとに集まる。女性も男性も。お金持ちもそうでない人も。そうして大勢が逃げるかのように去っていく。彼女のうつくしさがおそろしくなるからだ。

 彼女のうつくしさは、人をうっとりさせたり欲情させたりする種類のものではない。彼女と向き合っていると、見透かされているような、こちらが不当に奪われているような、凶事にまきこまれていくような、人はそんな気分になる。それで、多くの人が曖昧に去っていく。残るのは、鈍感な男と女だけ。だから彼女には友人と呼べる人がいない。自分のまわりにいるのがなぜ鈍感な男と女ばかりなのかも、わからない。けれど、それはよいことだと彼女は思いなおす。友だちと呼べない人に囲まれていれば、私は私の秘密を話すことはないだろうから。

 一度だけ恋をしたことがある。その恋人に彼女は秘密を打ち明けた。

 私の母は私が子どものころに湖で亡くなったの。ボールを追って森の奥に入った私は見てしまったの。母が湖の奥へ奥へと進むのを。ママと叫ぶと母は振り返った。腰から下を水に浸して、私に笑って手を振った。さようなら、ママ、いくわ。

 なぜ、と恋人は訊く。なぜ? わからない。父に恋人がいたせいかもしれないわね。でも、そうでなくても母という人は孤独だったようにも思う。彼女は答える。

 それできみは、どうしたの、と続けて問われ、見ていたわ、と彼女は答える。母の髪が、頭が、水にそっと沈んでいくのをその場に立って見ていた。だれかを呼びにいくこともなく。驚いたから。違う。かなしかったから。違う。うつくしかったから。そう、見とれていたのだ。

 できるなら、早く忘れたほうがいいと恋人は彼女に言った。死を選んだのはおかあさんだし、どのみち、子どもには何もできなかったと思うよ。きみがみごろしにしたわけではないよ。

 そう言ったのに恋人は彼女のもとを去った。逃げるようにひそやかに。秘密を話した彼女は、彼にとってもううつくしくはなかったのだろう。恋人が去っても彼女は追わず、泣くこともなかった。ただ秘密を話したことを深く後悔した。父にも話さなかったのに。私だけの景色を、いなくなる男に見せてやるのではなかった。これから湖に入った母親は、私だけではなく、私と、あの男に向かって手を振ることになる。それをあの男は何度も見るだろう。私のように。彼女は忌々しく思う。思ったに違いない。

 彼女は秘密以外のことならなんでも私に話す。幼いころから親身になっている私は、彼女が信頼する唯一の人間だ。なぜ彼女が話さない秘密を私が知っているのかといえば、私はその場にいたからだ。その日、私は彼女の母親と短く言葉を交わしてわかれた。彼女の娘が、母親を呼ぶ声がした。帽子が飛んでいってしまったから、とって、と娘は叫ぶように言っていた。彼女は娘の帽子をとりに湖に入ったのだ。そうして何かに足をとられて溺れたのに違いない。彼女は手を振ったのではない、助けを求めた。娘は水にのまれていく母をただ眺めていた。その光景を私もただ、眺めていた。私は彼女と秘密を共有している。そのことが私をうつくしくしている。私たちを真の親子のように見せている。そのことを、彼女は知らないが、私は知っている。


かくた・みつよ●1967年、神奈川県生まれ。2005年、『対岸の彼女』で直木賞、07年『八日目の蟬』で中央公論文芸賞など受賞作多数。近著に、『私のなかの彼女』『平凡』など。



 

ヴァロットン展公式サイトでは、会期中、「ボール」「貞節なシュザンヌ」「嘘(アンティミテⅠ)」の3作のヴァロットン作品から角田光代さんがイメージして書き下ろした短編小説を掲載予定。

貞節なシュザンヌ

《貞節なシュザンヌ》1922年 油彩、カンヴァス 54×73 cm 
ローザンヌ州立美術館蔵
Photo: J.-C. Ducret, Musée cantonal des Beaux-Arts, Lausanne

嘘

《嘘(アンティミテⅠ)》1897年 木版、紙 17.9×22.5cm 
三菱一号館美術館蔵

高橋明也館長と角田光代さん

三菱一号館美術館・高橋明也館長と角田光代さんとのヴァロットン対談も。

>>>角田さん小説連載・対談はこちらでお楽しみいただけます<<<

ヴァロットン展公式サイト http://mimt.jp/vallotton


ヴァロットン ―冷たい炎の画家展

三菱一号館美術館(東京・丸の内)にて
会期 2014年6月14日(土)~9月23日(火・祝)

開館時間 10:00~18:00(祝日除く金曜のみ20:00まで)
※入館は閉館の30分前まで
休館日 月曜休館
(但し、祝日の場合は開館/9月22日は18:00まで開館)
お問い合わせ 03-5777-8600(ハローダイヤル)
展覧会サイト http://mimt.jp/vallotton
美術館サイト http://mimt.jp

入館料
[当日券]一般1600円/高校生・大学生1000円/小・中学生500円
[前売券]一般1400円
※大学生以下、ペア(一般)は前売券の設定はありません
※ペア券はチケットぴあでのみ販売致します
[前売券]発売中~2014年6月13日(金)
●ローソンチケット、チケットぴあ、セブンチケット、三菱一号館美術館チケット購入サイトWEBKET(展覧会サイトからアクセス)
●東京メトロ定期券売場、ちけっとぽーと関東各店 ※東京メトロ、ちけっとぽーとでは絵柄入りのチケットを販売しています。詳細は展覧会サイト

場所
三菱一号館美術館
〒100-0005 東京都千代田区丸の内2-6-2

アクセス
●東京メトロ千代田線「二重橋前」駅・1番出口から徒歩3分
●都営三田線「日比谷」駅・B7出口から徒歩4分
●JR「東京」駅・丸の内南口から徒歩5分
●JR「有楽町」駅・国際フォーラム口から徒歩5分