角田光代『対岸の彼女』の番外編が読める! 書き下ろし新作を無料公開


とある広場で“あの人”


今月の“あの人”は…対岸の彼女』

あかり

対岸の彼女』 角田光代/文春文庫

“自分の社交性のなさが娘のあかりに影響を与えているのかも”と常々感じていた専業主婦の小夜子。「働きにいこう」─彼女がそう決意したのは、ブラウスの相場が“わからない”という些細な衝撃がきっかけだった。いくつも面接を落とされたあげくに決まったのは、小夜子と同い年で大学も同じだという女社長の旅行会社。ハウスクリーニングを新規事業として始めるにあたっての人材採用だという。「敬語はなし」がルールで、小夜子に「ボス」と渾名をつけた葵という女社長はフランクでサバサバしているように見えたが、高校生のときに同級の女子生徒と心中事件を起こした過去を持っていた。多様化する時代を生きる女性の苦悩と友情を描いた傑作長編。第132回直木賞受賞作。

『対岸の彼女』番外編

私の灯台【第一話】 角田光代


写真提供=Getty Image

 その人は午後になると、庭に出てきて、切り株で作られた椅子に腰掛けて、ぼうっと海を見ている。お茶を飲んでいるときも煙草を吸っているときもある。いつも笑顔で、泊まり客を見かけると向こうから声をかけてくる人だけれど、このときだけは、なんとなく透明のバリアが張られているみたいで、声がかけづらい。そう感じるのは私ひとりではないらしく、庭を通りがかるだれも彼女に声はかけない。何を見ているんだろう、と思う。彼女の後ろに立って視線の先を眺める。見えるのは、島の先端と海と空と水平線。この島にやってくるフェリーも見える。でも、彼女が見ているのはそのどれでもない気がする。どれでもない何かは、でも、私の目には見えない。長いときは一時間くらいそうしている。それから立ち上がって、せわしなく立ち働いている。スタッフたちに何か注意したり、洗濯物を取りこんだり、デスクで帳面と向き合っていたりする。泊まり客が通りかかれば、いつものように声をかけ、一言二言、明るく話している。椅子に腰掛けている午後のその時間だけ、たましいが抜け落ちたみたいに見える。

 太陽が海の向こうに沈むのを、旅行者も地元の人もいっしょになって眺める。浜辺で眺める人、泊まっているホテルやバンガローのベランダから眺める人。このゲストハウスでも、泊まり客は庭の椅子やベンチに腰掛けて夕日を眺める。毎日のことなのに不思議だと思う。私は二、三回見てもう充分だから。山も砂浜も空もピンクがかった橙色に染まるころ、夕食をとるために宿を出る。飲食店の並ぶ通りまで十五分くらい歩く。

 私が泊まっている宿はライトハウスという。小高い山を上がったところにバンガロー形式のこの宿があり、さらに上にいくとちいさな灯台がある。もっとビーチに近い宿はたくさんあるし、飲食店の並ぶ大通りにも宿はある。でもこの少々不便な宿に泊まろうと決めたのは、フェリー乗り場でもらったパンフレットに、オーナーが日本人だと書いてあったのと、あと、名前。ライトハウスは灯台。私の名前の「あかり」が入った名前だから。ライトハウスは小高い山の中腹にあって、庭からは海もフェリー乗り場から続く大通りも一望できる。町とも呼べない、大通りを「大」とつけるのも不釣り合いな、飲食店と土産物屋が十軒ほど並ぶ通りが、この周辺でいちばんの繁華街だ。

 ライトハウスのオーナーはナナさんという日本人女性だ。一服ひろば──煙草を吸う姿を見て私が勝手に名づけた庭のテーブル席──で午後に海を見ている人。この島は広いから、案外ゲストハウスを経営したり飲食店を営んでいる日本人はほかにもいるのかもしれない。でも、このあたりでは見かけない。

居並ぶ飲食店のなかでいちばんこぢんまりした食堂を選んで入る。日焼けした欧米人のカップルと地元の人らしい家族連れがいる。私はビールと春雨のサラダ、揚げた春巻きを頼む。食堂は屋根だけがある半屋台で、窓もドアもない。生ぬるい風が通り抜けていく。

 宿のオーナーであるナナさんは、人なつっこいけれど馴れ馴れしくはない。チェックインした三日前、「住まいは東京?」と訊いてきたけれど、それ以外は何も訊いてこない。ひとり旅? ここを出たらバンコクに戻るの? それともまだ旅を続けるの? 東京では何をしているの? そんなことは何も訊かない。毎月大勢の旅行者がくるのだろうから、いちいち興味など持たないのだろう。私は反対に、ちょっと自分でも驚くくらいナナさんに興味を持っている。訊きたいことが山ほどある。なぜ日本を出たの? なぜここに住むことにしたの? いつからゲストハウスをやっているの? 帰りたくなることはないの? でも、ナナさんが私に何も訊かないから、私もナナさんに訊けずにいる。

 ひとりでふらりと店に入ってきた欧米人が、少し離れた席に座ってビールを飲みはじめる。ちらちらとこちらを見ている。きっと話しかけてくるんだろうなと思ったそばから、目が合う。笑いかけてくる。席を移ってもいいかとジャスチャーで訊く。うなずくと私の前に移動する。ひとり? 日本の人? 宿はどこ? 彼の話す英語は聞き取れたけど、私はわからないふりをして、食べかけの春巻きを指して、どうぞ、と言ってみる。彼は笑うが食べない。なのでひとりで食べる。彼は店員にビールを追加注文し、私にもどうかと訊く。私ももう一本注文する。

 この島は満月の日のパーティが有名で、満月前後に観光客は激増するらしい。インターネットカフェで調べてみたら、満月は明後日だ。明日あたり、大量の観光客がやってくるだろう。目の前でビールを飲む見知らぬ人はパーティにきたのだろうか。それにしてはもの静かで、パーリーピーポー(パリピとみんな言う)っぽくはない。

 ビール飲んだらビーチにいかない?ビーチで飲もうよ。と、英語がわからないふりをしている私に、彼はジェスチャー付きで話しかけてくる。私は少し考える。うん、いいよ、と答えて、そう答える自分を醒めて眺めるもうひとりの自分に気づく。

※リンク先のJT「ちょっと一服ひろば」は、満20歳以上のたばこを吸う方に向けたウェブサイトです。作品の他、たばこに関する情報が掲載されています。

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かくた・みつよ●1967年、神奈川県生まれ。90年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞し、デビュー。96年『まどろむ夜のUFO』で野間文芸新人賞、2005年『対岸の彼女』で直木賞など受賞多数。著作に『八日目の蟬』『紙の月』『私のなかの彼女』『笹の舟で海をわたる』『坂の途中の家』など多数。




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