SMAP、KinkiKids、TOKIO、嵐…キンプリの『シンデレラガール』も手掛けた船山基紀氏に聞いた! ジャニーズサウンドの秘密

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公開日:2019/12/5

 昭和の「勝手にしやがれ」(沢田研二)や「仮面舞踏会」(少年隊)から、平成の「淋しい熱帯魚」(Wink)や「シンデレラガール」(King & Prince)、そして令和の「道』(亀梨和也)まで数々のヒット曲を手掛け、現在も第一線で活躍する編曲家の船山基紀さん。これまでに関わった2753曲(2019年6月時点)を生み出してきた半生記をまとめた『ヒット曲の料理人 編曲家・船山基紀の時代』(リットーミュージック)は、日本の歌謡史を語る上で重要な一冊であり、音楽に詳しい方はもちろん、ライトな音楽ファンも楽しめる内容となっています。そんな本書を出すきっかけ、音楽と機材の変遷、長年アレンジャーとして関わるジャニーズの楽曲などについて、音楽制作を行う船山さんのスタジオで伺いました。

『ヒット曲の料理人 編曲家・船山基紀の時代』(船山基紀/リットーミュージック)

■「イントロ」が決まらないと、仕事が先へ進まない

――『ヒット曲の料理人 編曲家・船山基紀の時代』を出すきっかけを教えてください。

船山基紀氏(以下、船山) 僕もこういう歳になったので、いずれどこかで自分の仕事を総括しないとなという思いがずっとあって、ちょうど萩田光雄(※1)さんの『ヒット曲の料理人 編曲家・萩田光雄の時代』が出て、次は僕にというお話をいただいてやってみたんですが……まあびっくり仰天、ほとんど覚えてなかった(笑)。それは「この作品で失敗したら、二度と声はかからない」と思って一作一作無我夢中で、いつも後ろからせっつかれているような気持ちをつい最近までずっと抱いていたからなんですよ。

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 というのも、レコーディングが終わって「お疲れ様でした」とスタジオを出た途端にその日のアレンジを忘れることが僕らの仕事のひとつのテクニックだったんです。ヒット曲というのは、ウケるメロディやある種のテンプレートみたいなものがあるので、似ているんですよ。それを毎日とっかえひっかえしてアレンジとして提供していかないといけないとなると、その日やったものを覚えていたら、次が書けなくなっちゃうんです。それで自然とスタジオを出た瞬間に忘れる習慣がついちゃって……やって忘れて、の繰り返しだから、どんどんいらない成分がなくなって、記憶が圧縮されていったんです。だから「すごく長い道のりを来たな」ではなくて「ついこの間アレンジャーになったけど、もうこんな歳なっちゃった」と(笑)。なので本を作るにあたっていろいろと話を聞かれて、圧縮された記憶が解凍されていくような感じでしたね。自分一人じゃ絶対に思い出せなかった。

※1 萩田光雄……編曲家。「プレイバックPart2」(山口百恵)、「木綿のハンカチーフ」(太田裕美)など数々のヒット曲のアレンジを手掛ける。船山氏が最初に勤めた「ヤマハ音楽振興会」の先輩社員であり、多くのことを教わった師匠でもある。歴代編曲家シングル総売上ランキング3位(オリコン調べ)。

――船山さんは「イントロ」が決まらないと、仕事が先へ進まないんだそうですね?

船山 中身のアレンジって、曲をもらった瞬間に「ここは決め」「ここは盛り上げ」「ここはじんわり」と決まってるんですよ。それはすぐ書けるから、この曲とアーティストを目立たせる、今まで誰もやっていない、聞いたことがないイントロってどういうのか、というのを毎日やってたわけです。すぐ思いつくのもあるし、悩んで作ることも、悩んでも悩んでも出てこないものもある。それはアーティストやプロデューサーの「ハードルの低さ・高さ」でひねり出すものが変わってくるんですよ。こんなイントロだと鼻で笑われるな、とかね。でもハードルが高ければいい作品ができるかっていうとそうでもなくて、ハードルが低くて勝手にやらせてもらうといいものができたりとか、いろいろなんですよ。一番ハードルが低くてヒットした曲は、五輪真弓の「恋人よ」(※2)。「B面用だから好きにやって」と言われて、あのイントロができたんです。

 逆に一番ハードルが高くて、ひねりにひねって、苦しくて、どうしようかと思って、とにかく「ままよ!」と作ったのが、少年隊の「仮面舞踏会」(※3)。歌とは違う5/4拍子のリズムで、タララララ……と音が下がって、上がって、また下がる……あんなイントロ、考えつかないよ、正常な神経だったら(笑)。あの曲はレコード会社も、ジャニー(喜多川)さんも、作曲の筒美京平(※4)さんも、みんなが「絶対に1位にならなきゃいけない」とギラギラしていて、それがアレンジャーの僕に全部集中するわけ(笑)。本当に怖かったけど、だからこそ誰にも文句言われないような、文句を言いようがないようなイントロを作るっていう、ハードルが一番高いところの仕事でしたね。そこを飛び越えて、みんなが「何これ?」としか言えないようなイントロがで書けた。もちろん「なんだこりゃ?」と言う人もいたけど、確実に言えるのは、ジャニーさんはすごく喜んでくれたんですよ。

※2 「恋人よ」……1980年リリース。ストリングスとピアノによる壮大なイントロが48秒も続く曲。当初はB面収録の「ジョーカー」がA面の予定だったため、船山氏の母親が好んで聞いていたクラシック音楽をベースに作ったという。同年末の日本レコード大賞で金賞を受賞。

※3 「仮面舞踏会」……1985年リリース。錦織一清、植草克秀、東山紀之によるトリオ「少年隊」のデビューシングル。作詞はちあき哲也。

※4 筒美京平……作曲家、編曲家。「魅せられて」(ジュディ・オング)、「ブルー・ライト・ヨコハマ」(いしだあゆみ)、「AMBITIOUS JAPAN!」(TOKIO)、アニメ『サザエさん』の劇伴など数々の名曲を手掛けた稀代のヒットメーカー。歴代作曲家総売上ランキング1位(オリコン調べ)。

■派手さ・きらびやかさ・ゴージャス感が「ジャニーズ・サウンド」の秘密

――今年7月に亡くなったジャニー喜多川さん、どんな方だったんでしょう。

船山 ジャニーさんにお会いするのは、(堂本)光一くんや滝沢(秀明)くんの舞台が多かった。音楽に対するダメ出しは本当に厳しかったですよ。ジャニーさんって、お金をいただいてショーをやる「ショービジネス」に関して一切の妥協がないわけ。本当に自分が納得するまで絶対に人前には出さない。舞台でも、最初は「いいね」と言ってくれて、その曲でやるんだけど、1週間くらい経つと「もう飽きた」と公演中に曲を変えることもあって(笑)。だからね、鍛えられた。それで仕事が終わるとジャニーさんから「バッチリだったよ」とお言葉が返ってくるんだけど、本当に良かったかどうかは、またお声がかかるかどうか。次の芝居やシングルに起用されると、「ジャニーさん、本当に気に入ってくれたんだな」とわかるんだよね。

――本書によると、ジャニーズとの初めての仕事は1979年、川崎麻世さんの「宇宙空母ブルー・ノア ―大いなる海へ―/夜間航海」ですね。これまで40年間担当されていますが、ジャニーズの音楽の特徴ってどんなところだと考えていらっしゃいますか?

船山 ジャニーズとの仕事で求められたのは、派手さときらびやかさとゴージャス感、いわゆる「ジャニーズ・サウンド」です。この要素は絶対に外せない。それは今も昔も変わっていません。

 例えばTOKIOが歌った「宙船」は中島みゆきが作った曲だけど、長瀬(智也)くんがバンドのTOKIOとしてのデモテープを作ってきたんですよ。それがさ、ものすごく良くできてるんだよ! だから打ち合わせで「このまんまでいいじゃん」と言うと、長瀬くんは「バンドのサウンドだとジャニーが納得しないんです」と言うんです。ジャニーさんが好きなのはジャニーズ・サウンド。だからストリングスやブラスのセクションなどを僕が足して、バンドサウンドだけじゃない豪華さを演出したんです。だから「宙船」は、ある程度のラインはみゆきの作った曲でできていて、それをブラッシュアップしたのが長瀬くん、さらにゴージャス感でパッケージングしたのが僕の仕事。ジャニーズのスタンプを僕がポンと押した、という感じだね。

――最近だと、King & Princeのデビューシングル「シンデレラガール」も手掛けられました。

船山 あの曲も「宙船」と同じように高い完成度で僕のところへ来たんだけど、やっぱりストリングスなどで華麗さを入れるというジャニーズのスタンプを押してほしかったんだと思うんだよね。それからデモテープはすべてコンピュータで作っているから、そこへ生の楽器を入れて、人間味と温かみを加えていくのも僕の仕事。「シンデレラガール」は聞いた瞬間に「売れるな」と思ったよ。最近では一番スゴい曲だった。

■世界でも類を見ない、イントロ大国・日本

――本書は昭和から令和までの歌謡史のみならず、船山さんが活動を始めた1970年代の楽器を生演奏する時代から、80年代の「打ち込み」と呼ばれたデジタル楽器、そしてコンピュータへと楽曲制作が変遷する歴史も読みどころですね。

船山 僕は常に新しい音楽、楽器というものにすぐ飛びつく人たちだったから。同じように考える人が、筒美京平さんなんです。だから筒美先生は僕に声をかけてくださったんじゃないかな。そもそも僕が「フェアライト」というコンピュータを導入して打ち込みを始めたのは、「この楽器ひとつあったら、全部自分でできるからいいや」っていうチャラい考えだったの。

 僕は音楽を突き詰めて考えるよりは、もうちょっと軽いところ、風俗的に捉えているんです。音大で勉強してきて、「ピアノで真面目にアレンジします」なんて人とまともにやったら、とてもじゃないけど太刀打ちできない。だから、違う発想ができたんだと思うんだよね。僕は音楽の勉強してきたわけでもないし、ただの音楽好きがたまたまこういう道に転んでしまった、というヤツなんです。だから僕は職業音楽家というよりは、アマチュア音楽愛好家のプロみたいな立場なんだと思う。いい加減なんだよ、要はね(笑)。

 でもこんなにイントロにこだわるのって、世界でも日本だけ。イントロっていうのはさ、単に「はい、3、4!」って歌えるようにするものでしょ? それがいつの間にかガラパゴスの日本では、歌手本人の歌が上手であれ下手であれ、イントロで「お!」と思わせないと商品にはしないというイントロ大国になっちゃったんだよね。それは日本みたいな小さなマーケットを相手として考えたときに、それなりの解決法、手法だったと思うし、それだけ昔の音楽業界にはいい頭脳が集まってたんだと思うんだよね。今では抜きん出た頭脳を持つ人たちはIT業界とかに行くんだろうけど、当時は音楽業界にそういう人がとっても多くて。だからちょうどいいときに、音楽をあんまり理論的に考えず、感覚的に捉えていた僕みたいな人間が上手くハマったんだよね。運が良かったのよ。

■音楽本来の「音を楽しむ」ことをやっていきたい

――音楽業界は「CDが売れない」という話がよく聞かれますが、船山さんは今後音楽とどのように関わっていきたいと考えていらっしゃいますか?

船山 ついこの間まで、音楽というのはレコードやカセット、CDというパッケージ化された商品にするものだったんだけど、今はライブでみんなで一緒に踊って歌って楽しむという、とってもいい方向へ向いていると思うんですよ。だから「CDにならないからダメ」という考え方ではなくて、僕はみんなで音楽を楽しもうという方向に寄り添いたい。それにはもうちょっと人間を前面に出すような音楽をやっていきたいなと思ってるんです。まあそういうことを言うと「バンドですか?」と言われるんだけど、それだけじゃなくて、「人間がやる音楽を表現していけたらな」と考えているんです。

 今は音楽家にとってはいい時代だと思いますよ。コンピュータが一台あれば曲が作れて、YouTubeに上げれば聞いてくれる人がいて、すぐにスターになれる。昔なんか『スター誕生!』(※)かなんかに出て、1位を取らないとデビューできなかったのにね。だから僕はそこから一歩先のこと、今のコンピュータばっかりの世界から、もうちょっと人間がやること、本来の「音を楽しむ」という音楽に戻っていたらいいなと思ってます。人が演奏して出す音っていうのは一人ひとり違うものだけど、コンピュータでやると誰の音って言えないじゃない? そこなんだよね。音の硬さや柔らかさ、その人の持ってるリズム感、そういうものを楽しむことをやりたい。そうなってくると、すごく高度な聞き方になってくるわけ。昔のアイドルの歌みたいに、半音くらい外れて歌ってたって平気で、それをみんなが真似して半音低く歌うようなことと全然次元が違う(笑)。だから今のように、みんなの音楽を聞く耳が変わって、ハイレベルな楽しみ方になってるのってとてもいいと思う……なんてね、偉そうなこと言ってるけど(笑)。

※5 『スター誕生!』……1971年から1983年まで日本テレビ系列で放送されたオーディション番組。予選会を勝ち抜いた合格者が決勝大会に出場、歌手デビューを目指した。山口百恵、森昌子、桜田淳子、岩崎宏美、ピンク・レディー、石野真子、中森明菜、小泉今日子など数々のアイドルを輩出。

取材・文=成田全(ナリタタモツ)

[プロフィール]
作曲家・編曲家 船山基紀(ふなやま・もとき)
1951年、東京都生まれ。大学在学中から編曲の仕事を始め、74年にフリーとなり、数々のヒット曲を生み出す。舞台『SHOCK』『Playzone』『滝沢革命』などの音楽制作も担当。近年はMoto & Masu(ギタリスト増崎孝司とのコンビ)名義でアルバム『Lawn Boys go to Manhattan』『Te Quiero』を発表している。歴代編曲家シングル総売上ランキング2位(オリコン調べ)。