『はだしのゲン』の故・中沢啓治氏が原爆をマンガにした理由

社会

更新日:2014/4/28

 2012年12月19日、『はだしのゲン』(集英社/中央公論社/汐文社他)で知られる中沢啓治氏が73歳で他界された。時を同じくして発売されたのが、肺がんを患いながら気力をふりしぼって書き記した『はだしのゲン わたしの遺書』(中沢啓治/朝日学生新聞社)だ。

 中沢氏の生涯は、日本人に原爆の記憶を忘れさせないことと戦争責任の追及に費やされた。本書は8月6日の広島に原爆が投下された6歳の頃の記憶にはじまり、戦後の食糧不足の時代を生き抜き、やがてマンガ家として身を立てていく作者自身を語った自伝である。

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 活字で読む原爆体験は、あらためて壮絶だ。いつもどおり登校しようとした朝、ものすごい光が目に入り、気がつけば辺りは真っ暗。体の上にはコンクリートの塀と街路樹が重くのしかかっていた。しかし、その塀に遮られたおかげで、奇跡的に3千度を超える原爆の熱線を浴びずに済んだのだ。1メートルほどの距離で立ち話をしていたおばさんは、熱線を真正面から浴びて黒こげになっていたという。秒速400メートルの爆風は、爆心地から半径2キロの木造家屋をぺしゃんこに押し潰し、街には焼けただれた皮膚を引きずり幽霊のように歩く人があふれていた。

 6歳の頃のこのトラウマにより、中沢氏は「原爆」の二文字を見ただけで地獄絵図と死臭を思い出してしまい、原爆症の不安もあり、ずっと忘れようとしていたという。原爆のマンガを描こうなど思ってもいなかった。

 ところが、27歳のときに母が亡くなったことがきっかけとなり、あらためて戦争と原爆について向き合うことになる。それは、怒りだった。母の遺骨は、放射能の侵入によって脆くなっていたらしく、跡形もなく灰になっていた。また、アメリカのABCC(原爆傷害調査委員会)が母の遺体の解剖を迫ったそうだ。原爆症の人々は、カルテに「標本名」として記されていたというから、その冷酷さに驚く。この経験により、中沢氏は原爆から逃げ回ることをやめ、「漫画の中で徹底的に闘ってやる!!」と覚悟を決める。

 やがて1973年に『週刊少年ジャンプ』誌上で『はだしのゲン』の連載を開始。原爆マンガが『週刊少年ジャンプ』に連載されていたとは驚きだが、当時はまだ部数も少ない後発雑誌だった。しかし、社名に傷がつくという理由で単行本化されず、その後、汐文社から第1部全4巻が発売され、100万部を超えるベストセラーに。全国の学校図書館がマンガ本として初めて『はだしのゲン』を購入するといった動きや、ボランティアで19カ国語に翻訳されるなど、中沢氏のメッセージは着々と広がっていった。

 70歳のときに中沢氏は白内障のため執筆活動を断念するのだが、実は『はだしのゲン』第3部を構想していたという。大人になったゲンはマンガ家のアシスタントとなり、やがて本格的に絵を勉強したいと考えフランスに渡航。原発大国であるフランスで、ゲンは絵描き仲間と共に原発問題を考えていく……といった構想だったそうだ。まさに3.11以降の今の状況につながる物語である。描かれなかったことが残念でならない。

 本書を手に取ったとき、まっさきに思ったのは、中沢氏が3.11以降の日本をどう感じていたかということ。福島の原発事故が起きたとき、中沢氏は「やっぱりきたか」と感じたそうだ。以前からこの地震列島に原発を増設することは危険だと考えていた。なのに、誰も待ったをかけない状況に憤りを感じていたのだ。

 「福島のことを考えると、いまもあのころと事態はあまり変わっていないように思います。唯一の被爆国なのに、放射能のことが正しく理解されていないことは、なんと情けないことでしょうか」と中沢氏は記している。

 『はだしのゲン』を再読しようと思う。そこに込められた、何度踏まれても芽を出す麦のようにたくましい人間になれ、というメッセージを噛みしめたい。

文=大寺 明