サブカルだけじゃない! もっとディープな中央線沿線の魅力

暮らし

更新日:2013/3/8

 「中央線」と聞いて、みなさんはなにを連想するだろうか。サブカルチャー? 飲み屋や喫茶店? ライブハウス? 古書店? いずれにせよ、東京を東西にまっすぐ横断する中央線は鉄道としての存在感も抜きん出ているし、沿線には個性的な街も多いため、都内に住む人ならなにかしらイメージするものがあると思う。

 しかし、この「中央線」の支配力が強すぎるがゆえに、沿線地域の原構造が見えにくくなっているのではないか――そんな視点から書かれたのが『中央線がなかったら 見えてくる東京の古層』(エヌティティ出版)だ。編著者は江戸東京学の牽引者・陣内秀信氏と、郊外論の第一人者・三浦展氏。両氏が中心となり、書名のとおり視界から中央線を取り除き、古地図を手に中野、高円寺、阿佐ヶ谷、国分寺~府中、日野を歩くことで東京の深層を浮かび上がらせようと試みる。

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 現在中央線が走る中野区、杉並区、武蔵野市、多摩地域は、もともと江戸の近郊農村だった。そこに明治22年、中央線の前身である甲武鉄道が新宿―立川間で開業し、関東大震災後には駅を中心に都市化が進んだという。つまり、中央線中心の生活圏は近代以降にできあがったもので、それ以前の地域コミュニティは別のところに形成されていたという。陣内氏の言葉を借りれば、「重要なスポットは、実は中央線のずっと北や南のほうにある」。その「重要なスポット」を探る際のチェックポイントは、川、古道、神社などだ。

 人の生活には水が不可欠だから、縄文・弥生時代の人々は、川の流域の小高くなった安全な場所に住んだ。また、東京には古くから崖線が多く、川に浸食された崖に水が湧く。その付近に神社=聖域ができ、古代・中世に聖域と聖域を結ぶ道=古道が形成され、近世の集落へとつながっていった、というのがその理由。とりわけ杉並区は、このプロセスがわかりやすく現れているという。

 実は私事で恐縮だが、阿佐ヶ谷に住んで10年になる。阿佐ヶ谷には、駅の南口側から青梅街道まで延びる「阿佐谷パールセンター」という商店街があるのだが、前々から気になっていたことがあった。この商店街、やたら長いうえに、曲がりくねっているのだ。

 本書によれば、「パールセンター」は阿佐ヶ谷駅から南へ約2.5km、善福寺川の南岸に位置する大宮八幡宮と、同じく阿佐ヶ谷駅から北へ約2kmほどの距離にある鷺宮八幡神社とを結ぶ古道の一部なのだという。大宮八幡宮は1063年創建、鷺宮八幡神社は1064年創建。なるほど、中世の道だからあんなにくねくねしていたのか。鉄道を中心に地域を捉えると、駅ができてから道が開けたように思えてしまうが、実際はその逆。古道と甲武鉄道がぶつかる地点に阿佐ヶ谷駅ができ(大正11年)、古来より踏みならされてきた道は駅前商店街として発展したわけだ。

 また、善福寺川の北岸には、先土器時代から縄文・弥生時代を経て古墳時代へ至る複合遺跡「松ノ木遺跡」がある。この遺跡が古代の生活の場であったのに対し、対岸の大宮八幡宮はその創建以前から「聖地」として位置づけられていたとも考えられるというから、その重要性および神性がうかがい知れよう。ちなみに、大宮八幡宮の境内には湧水もあり、いまもペットボトルを持って水を汲みにくる人が多いそうだ。

 上記は本書の記述のほんの一部であり、他の地域でも同様に、足裏で感じた東京の深層が詳細に綴られている。たとえば中野や高円寺からは、青梅街道を軸に栄えた江戸―大正期の東京郊外の姿が垣間見え、国分寺―府中の地形や古道には、かつて武蔵国(古代東京)の中心地であったことを物語る、濃密な歴史を感じることができる。

 鉄道は近代になってからのインフラであり、「中央線文化」みたいなものは、幾重にも重ねられた歴史のレイヤーの表層で形成されたものにすぎない。だからといってそれを否定する気は毛頭ないし、むしろ好きなのである(だから阿佐ヶ谷に住んでいる)。しかし、地域に眠る原構造にひとたび触れれば、ふだん見慣れた風景も変わって見えるし、親しみや楽しみも増すというものだ。

文=須藤 輝