本と本が友情で結ばれている!? 新潟「北書店」の魅力

ビジネス

更新日:2018/12/7

 本屋さんで本を買うとき、10人いれば10通りの本の「買い方」があるだろう。だが、「ジャケ買い」のような五感に基づいただけの買い方を除けば、おそらくは、買い手の内側にある「既知の世界」と、書棚に並ぶ「未知の世界」とのあいだに、何らかの結びつきがなければならない。

 たとえば、まったく見知らぬ人間といきなり友達になることは困難だが、既に仲のよい友達の友達ならば、出会いのきっかけは容易に得られる。他にもなんだっていい、同じ場所を共有しているとか、仕事が同じだとか、郷里が一緒だとか、恋人が好きだと言っていたとか、好きな芸能人が愛読書に挙げていたとか、とにかくなにかしら、自分が知っているものや自分に属するものと「重なるもの」を見つけて、それを手掛かりに、私たちは他者という「未知の世界」に入っていけるのだ。

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 自分の書店での行動パターンを具体的に振り返ると、どうも、こんなことをしていることがわかった。

 書店の本棚の前に立ち、漠然と眺めて、まず目が捉えるのは「すでに知っている友達=既読の、愛好している本」の背表紙である。すでに知っている本、それも好きな本は、書棚の中で輝いて見える。

 そしてそこから同心円状に、その本の確かな「友」を探していくことになる。これは、著者同士が友達だとか、ジャンルが同じだとか、そんなこととは一切関係がない。ジャンルも年代も超えて、全ての枠組みを超えて、「友達同士の本」というのがあるのだ。むしろジャンルを越境している「友達同士の本」のほうがずっと、魅力的な結びつきだったりする。

 本と本が友情で結ばれているとき、その書棚は非常に賑やかだ。ほとんど、タイトルとタイトルとが対談しているように見える。知っている本の輝き、そこから広がっている対話。こういう本棚は、ほとんど生きているように見える。こういう本棚に出会ってしまうと、もう手ぶらでは帰れなくなる。

 北書店の佐藤さんがどうして、そんな本と本の友達関係をよく知っているのか、私にはわからない。私は佐藤さんの棚の前に立つと、いつもと同じように、すでに知っていて心から愛している本の背表紙を見いだす。するとそのとなりに、確かにこの本の友達であろうとおぼしき本が、なぜか、かならずあるのである! ゆえに、気がつけば隣り合う本をまとめて4冊とか買ってしまい、帰り道でヤワな上腕二頭筋をふるわすことになる。

 たとえば、こないだはまず『エリック・ホッファー自伝』だったか、『波止場日記』だったかが目に入った。何度も読み返した、大好きな本である。すると、その隣に並んだクララ・シューマンとブラームスの書簡集と、スーザン・ソンタグの評論エッセイ集、そしてG・スタイナーの『師弟のまじわり』が目に入った。ずるい。ずるすぎる。自動的に手が動き、三冊をそのまま、サンドイッチをつまみ出すように取り出した。無論今それは私の書棚にある。

 私は文章を書くことを生業にしている。子供の頃から文章を書くことが好きだった。口語ではなく、紙に書かれた文語の、音のない旋律とリズムが好きだった。いまもそれはかわりがない。故・吉本隆明氏が「自分はものを考える時、口語ではなく文語で考えてしまう」と言っていたが、その感覚がわずかにわかる。文章表現が、比喩が、心の中で音楽のように響き出すことがある。子供の頃は、書店の書棚の前に立ち、背表紙を眺めているだけで、書きたくて仕方がないような感覚に襲われた。

 しかし、いつのころからか、そういう感覚を得ることはほとんどなくなっていた。書店は無音の空間となった。私は、自分自身の感受性がオトナになってしまい、摩滅したのだろうと思っていた。

 20代後半に旅に出た新潟の町で、いまはなき北光社のショーウィンドウに出会い、私は、それが間違いだったことを知った。ガラス越しに並べられた本を覗き込んだ瞬間、私の心は、子供の頃のように、一斉に書き言葉をうたいはじめたのである。

 その棚こそ、現・北書店の佐藤さんが、北光社の店長として作っていた棚だ。

文=石井ゆかり(ライター)