江戸の「ガーデニング」は世界一! 時代小説から見る、花のお江戸の百花繚乱

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公開日:2013/7/31

 7月30日から「江戸東京博物館」で開催されている、特別展「花開く 江戸の園芸」。当時世界でも突出したガーデニング技術を持っていたという江戸の園芸文化を紹介している同展の概要によると、今から150年前に来日したイギリスの植物学者で、新しい植物を採取するために西欧諸国から全世界へと派遣された「プラントハンター」であったロバート・フォーチューン(中国の秘伝であったチャノキとその製法をインドへと持ち出してダージリン地方に植え、茶の中国独占を打破した人物。詳しくは『紅茶スパイ 英国人プラントハンター中国をゆく』(サラ・ローズ:著、築地誠子:訳/原書房)は、庶民までが花好きであることに驚嘆したという。

 関が原の戦いに勝利した徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いた1603年から大政奉還をした1868年までの265年間は、大きな戦乱もなく太平の世であった。平和になると文化が発達するのは世の常で、江戸では花卉園芸が発達して新品種が開発され、人々の目を楽しませていたそうだ。徳川家康を始めとする徳川将軍家も花好きの人が多く(「花癖」と言われていたそうだ)、三代将軍の家光は盆栽にのめり込んでいたという(家光が愛蔵したと言われる五葉松の盆栽は、現在宮内庁と東京都立園芸高等学校に所蔵されている)。また江戸城には「御花畠」があり、様々な草木が育てられていたそうだ。

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 日本で園芸がブームになったのには理由がある。それは1596年に明の医師・本草学者であった李時珍が諸本草書を集成・増補した『本草綱目』(全52巻。動物、植物、鉱物など約1900種類について名前や形、薬効や処方例などを記述した百科事典のような本)が、江戸時代の始めに日本へ到来した影響が大きかった。これを徳川家康のブレーンであった儒学者の林羅山が、自著『多識篇』中で一部を訳したことなどから本草学研究が盛んとなったようだ。また江戸時代には植木鉢も普及し、庶民が庭先で草花を育てる文化も発達。庭がなくてもOKというのは、画期的なことであったのだ。

 そんな江戸・向島で種苗屋「なずな屋」を営む、花師の新次とおりんの若夫婦が主人公の時代小説『花競べ 向嶋なずな屋繁盛記』(朝井まかて/講談社)によると、本草学が江戸の植木職人の育種技術を高め、そこから樹木や草花の栽培を育種を専業とする「花師」が生まれたそうだ。種から育てる実生や、挿し芽や挿し木、接ぎ木で数を増やしたりなど、様々な品種改良を行っていたという。有名どころだと、日本原産である「エドヒガン」と「オオシマザクラ」を交配して生まれたソメイヨシノは、江戸末期に染井村(現在の東京の駒込近辺)に住んでいた植木職人らによって生み出された品種であることが知られているが、本作でも最も優れた名花名木に与えられる称号「玄妙」を目指し、新たな品種を生み出そうと奮闘している。史実を調べるのが好きという朝井まかて氏(巻末には多くの参考文献が並んでいる)は、実際にあったことをベースに物語を描きたいと語っており、その言葉通り、当時は新種・珍種の花を出品する品評会が盛んだったそうだ。

 本作の舞台は、町人文化である「化政文化」が花開いた文化文政期(1804~1829年)だが、幕末から明治になると、西欧から輸入された花が美しいともてはやされ、それまでの江戸の園芸文化は急速に廃れてしまったという。しかし現在でも花見をし、朝顔市などが開催されていることからも、日本人の草木好きのDNAは変わっていないハズだ。

 時代小説というと、知識がないと読めないとか、難しそうと敬遠する人もいるかもしれないが、『花競べ 向嶋なずな屋繁盛記』はホッとしてクスッと笑える、一気に読める楽しい時代小説だ。そして江戸のガーデニングに興味を持ったら、特別展にも是非足を運んでみて欲しい。

文=成田全(ナリタタモツ)