“終活”ブームの一方で、確実に存在する過酷な現実と、光

社会

更新日:2014/1/27

 60代後半とおぼしき男性が、葉巻をくわえて、煙をくゆらせながら、満足そうな笑顔で座っている。フワフワと温かそうなセーターは、お気に入りの一着なのだろうか。華やかなオーラで輝く彼を、鮮やかな身のこなしのカメラマンが撮影していた。こぼれ落ちようとする笑顔を逃さまいとして、すかさずシャッターを押す。実はこれ、遺影を撮影している、写真館のスタジオの光景だ。

 近頃、“終活ビジネス”が盛んである。以前まではタブーとされていた「死」と向き合い、そのときのために、最善の準備をしておく。専門家に依頼して遺影を撮影したり、葬儀屋と式の内容について打ち合わせをする。家族で楽しそうに想い出を振り返りながら、明るく笑い合う。世界の中でも高齢化社会の先端を歩む日本において、終活が定着する日も近いだろう。きっと、世界のスタンダードにもなっていくはずだ。

advertisement

 一方で、死に直面する当人たちにとって、現実的なつらさも待ち構えている。「病院の階段をのぼるとき、いつも逃げ出したかった。全部悪い夢だと思いたかった。死にゆこうとしている父に会うのがこわかった」。文中に登場する父とは、思想家の吉本隆明氏である。これは、小説家よしもとばなな氏による新刊『すばらしい日々』(幻冬舎)の一文だ。主に震災直後から両親の闘病、そして別れまでの日々が綴られている。

 「でも、逃げちゃいけないと思った。本人は死から逃げられない。だから私が普通に会いにいき、逃げてないとこを見せなくてはと思った」。本人だけでなく、家族にとっても、強い覚悟のいること。それが闘病であり、高齢者を取り巻く周囲の方々の現実でもある。

 著者の母もまた、父と同様に病と闘っていた。「同じ家の中や同じ病院にいるのに、私の父と母は互いの部屋を自由に行き来できなくなっていた」。すぐ近くにいるのに、会いに行けない悲しみ。それを見守っている者の、つらさ。そこには一見、闇しか見えない。

 だが、生きようとする気持ちの強さや、誰かを守りたいと願う想いは、死が漂わせる暗さなんかよりも、はるかに輝きを放っている。「父も亡くなるまえはほとんど意識がなかったのに、私の手をぎゅっと握ってくれたことを思い出した。そんなに重い握手はない。すべてをたくされた握手だった」。握り合う手の温もりは、やがて一心同体となり、その瞬間に宇宙の息吹と呼応して、永遠の生命力が宿る。そうして「めそめそしている場合じゃないのだ」と、前を向く。

 本書の表紙には、写真が飾られている。糖尿病だった父が、インスリンの注射の量を決めるために、自分で指先に針を刺し、血糖値を計ってメモしていた手帳だ。目が見えなくなって、自分でも読めなくても、生きていくために書き続けてきた命の記録には、血の痕がにじんでいる。「どんな教えよりもはっきりと、父が最後まであきらめなかったことが伝わってきて、泣けてきた」と、著者は父の死後、ようやく開くことのできた手帳を見て、涙を流した。

 著者の所有する蓮の鉢は、青虫や、めだかなど、さまざまな生き物の棲家になっているという。「まるでスターを支える裏方たちのように、無数の命が蓮の花を支えているように思える」と気づき、「蓮の花みたいに、大スターみたいに、輝いて生きなくてはいけないと思う」と続ける。小さな鉢の中には宇宙が広がっており、また、その外にも宇宙が広がり、我々は生きている。

 「楽しくて楽しくてしかたない、どうしてこんなに世の中っておもしろいの?」とでも言いたげに、著者が散歩に連れている犬が、瞳を輝かせる。世界に広がる美しさに、犬は全身で感動していた。「世界よごめんなさい!」と、著者の心にも、きらきらと輝く感動が、優しく届く。

 死を迎えたときの準備をする、終活。それは言い換えれば、死にゆくまで、まだまだ自分らしく生き続けようとする、強い意志でもあろう。星が滅びゆくときに、最大の光と熱量を発するように、我々人間もまた、命を輝かせる。死をも明るく、笑い飛ばしたっていいじゃない。人間の強みは、きっと、そこにある。

文=八幡啓司