WEB官能&BL(34)朝来みゆか『彼女だけの指定席』
公開日:2014/1/28
朝来みゆか『彼女だけの指定席』
職を失ってしまったアヤは、知り合いの結南(ゆな)につれられて「深海カフェ」を訪れる。そこで客の愚痴や話を聞いてくれるマスター・律と出会い、励まされるが、生真面目なアヤは軽い調子の律の言葉を素直に受け止められない。けれど通ううちに、律の人となりを知るようになって──。恋は、はじまる時を選べない。恋しちゃいけない、と思ってみても、惹かれる気持ちをとめられない。リアルできゅんとする“初めて”ラブ♪
急用ができた兄に子守りを頼まれたのは、東京歴史博物館の最終出勤日だった。ユブキの面倒を見るのが嫌なわけではないが、こんなときには育児ロボットをレンタルしない兄が恨めしくなる。
早朝、オートタクシーに乗って兄の家へ行き、眠っていたユブキを起こし、身支度を整えてスクールに連れて行った。その後、あわただしく出勤した勢いで、しみじみと振り返る余裕もなく最後の一日が過ぎた。
「これからはアヤがいないから、もっとしっかりしないといけないって思ってる」
「智恵美(ちえみ)は充分しっかりしてるよ」
智恵美の次の職場は、星を見ながら宿泊できる種子島の複合リゾート施設にある小さな博物館だという。順調に転職が決まった智恵美と違い、アヤはまだ明日からの何も決まっていない。
手を振って別れ、街をそぞろ歩き、足は一ヶ月ぶりに深海カフェへ向いていた。
聞き屋に会いたいわけではない。一年半の勤務を終えた自分に乾杯するのだ。
いらっしゃい、と迎えられたそのとき、
「律(りつ)さん!」
駆け寄ってきた女性客が律の胸にしがみついた。彼女の重みを受け止めた律は目を泳がせ、悪いけどちょっと待ってて、とアヤに断りを入れた。
涙ながらに訴える女性客を、律はソファに座らせた。悪いかなと思いつつアヤは耳をそばだてる。
「うん……それで契約を? そうか、うん、収入がなくなると困るよなぁ……」
どうやら彼女も職を失ったらしい。
くぐもった客の声よりも、律の声の方がよく聞こえる。どんな風にこの客を励ますのか。君は思っているより強いよ、高く跳べるよ、という一言はいつ登場するのか。
二十分ほど経った。涙声で話し終えた客が支払いを済ませて出てゆく。目元は赤いが、満足そうな横顔だった。店の内扉が閉まる。
話を聞いていた律はときおり彼女の言葉を繰り返すだけで、エールや教訓めいたことは言わなかった。似た状況の客でも、同じ処方箋で対応しているわけではないらしい。
深海という名のオリジナルカクテルを注文した。律はトングで氷をつまみながら、アヤの足元へと視線を寄こす。
「今日は看板持ってないんだね」
「看板?」
「ラブユー。俺への愛が書かれた看板」
「違います、この前も言った通り」
「ブロークンハート」
両手の親指と人差し指でハートの形を作った律が、ぱっと散らすように指を離す。厚い皮膚に覆われ、切り傷や火傷の跡の残る労働者の手だ。ほんの数秒、見入ってしまった。
「お待たせ。ゆっくり味わって」
アヤはうなずき、目の前に置かれたグラスに口をつける。透明度の低い酒だ。
律はカラフルな羽根のついた帽子を頭に載せ、どうかな? とソファ席に座った女性客三人組に尋ねている。別の常連客にもらった土産物らしい。一人で飲みたいアヤを察してくれたのか、こちらに戻ってくる気配はない。
乾いた喉に深海を流し込む。口当たりのいい酒で、注意しないと一気に飲み終えてしまいそうだった。
飲食目的だったり、律と話すためだったり、何を求めてこの店へ来るかは客によって違う。深海生物マニアもいれば、たまたま建物を見つけて立ち寄っただけの客もいる。誰をも受け止める律の許容量は思った以上に広い。混然とした店なのに雰囲気がいいのはそのせいだ。ここならば自分の居場所があるかもしれないと思える。
出勤するふりをして家を出て、二駅分離れた深海カフェへ足を運ぶ日々が始まった。博物館を辞めたことを親には話していない。
面接へ向かうアヤに律がかけてくれる「いってらっしゃい」の声は、ほのかな温もりとなって背中を押してくれる。不採用通知を受け取ってもすぐ次の求人に向けて気持ちを切り替えられる自分は、確かに自分が思うより強いのかもしれない。
「ここ、アヤさんの専用席として使って」
聞き屋目当ての客が来る度、遠慮して座席を移るアヤを見かねたのか、律がカウンターの端の席を空けておいてくれるようになった。
「サービスですか、ありがとうございます」
アヤは戸惑いながらも律が示した席に腰を下ろす。律は少し照れた顔で笑う。
「俺も店開くまでは仕事転々としたから、他人事とは思えなくてさ」
2013年9月女性による、女性のための
エロティックな恋愛小説レーベルフルール{fleur}創刊
一徹さんを創刊イメージキャラクターとして、ルージュとブルーの2ラインで展開。大人の女性を満足させる、エロティックで読後感の良いエンターテインメント恋愛小説を提供します。