名優の知られざる素顔 『サムライ 評伝三船敏郎』が発売

芸能

公開日:2014/2/14

 「彼はまた、普通の人であり、謙虚で、恥ずかしがりやなのに、いつも我々を揺り動かす大変な感激とか、感動、また熱情を呼び起こす才能の持ち主でありました。彼は孤独の人でしたが、彼の中に我々自身を見る思いがしました。何者にもまして、彼は、今の世の中では稀な何かを持っていました。それは威厳そのものです。」

 かの映画監督、スティーヴン・スピルバーグから、このような弔電を送られた日本人俳優がいる。

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 三船敏郎。『羅生門』、『七人の侍』、『用心棒』など数々の黒澤明映画に出演し、海外の映画人に多大な影響を与え、「世界のミフネ」とまで呼ばれた名優である。

 1997年1月の三船の葬儀には、スピルバーグの他にもアラン・ドロン、フランスのシラク大統領(当時)ら錚々たるVIPたちがその死を惜しむ声を寄せている。だが海外からの反応に比して、葬儀に集まった人数は一般の弔問客は約1,800人と、日本を代表する俳優としては少ない人数であった。「世界のミフネ」の葬儀がなぜ斯くも寂しいものになってしまったのか。名優の人生に一体何があったのか。

 松田美智子著『サムライ 評伝三船敏郎』(文藝春秋)は、映画スターとしての輝かしい功績の面と、スキャンダルにまみれた負の側面の両方から俳優・三船敏郎の人生に迫った本である。

 三船が俳優になった切っ掛けは1946年、軍隊時代に知り合った人物のつてを経て、東宝の撮影部に就職しようとしたことだった。実は三船は俳優になる気など全くなくカメラマンを志望していたのだが、撮影部の人員に空きがないため、仕方なく新人俳優を採用するための面接を受けたのである。審査員を前に不機嫌な態度を隠そうとしない三船だったが、当時のスター女優である高峰秀子は「何かひとり凄いのがいるんだよ。」といって、ある新人監督をつかまえ三船の姿を見せる。その監督こそ後に三船とコンビを組む黒澤明であった。「世界のミフネ」はデビュー前から数奇な運命を辿ることが決定づけられていたようである。

 三船は面接に補欠合格、1947年に『銀嶺の果て』で映画デビューし、以後黒澤明や稲垣浩といった巨匠の作品で国内でだけでなく、海外の映画賞も受賞し一躍スターとなる。

 俳優として三船の優れた点は、何と言ってもその驚異的な身体能力にある。『銀嶺の果て』の撮影時には60キロもある機材を担いで吹雪の中を先頭切って山を登り、「用心棒」では十人斬りのシーンでカメラが捉えきれないくらいの速い太刀捌きを披露し、スタッフ達を度々驚かせた。

 こう書くと、三船はとても豪放な人物に見えることだろう。だが、その内面は実に心優しく、綺麗好きで几帳面な性格であり、撮影スタッフの誰からも「気遣いの人」として尊敬されていたという。

 そうした三船の一面を知る格好のエピソードがある。三船が仲の良い俳優、勝新太郎と中村(萬屋)錦之助と酒を飲んでいた時のことだ。散々酔っぱらった挙句、勝と錦之助が寝てしまった後、三船はふとトイレに立ち上がりしばらく戻ってこなかった。スタッフが何をしていたのですか、と尋ねると「いや、トイレの小便をするところが汚れていたから、俺が全部拭いてきたんだ」と答えたのだ。親友とはいえ、映画スター自らが散らかしたトイレの掃除、それも勝新太郎と萬屋錦之助という、これまた昭和の大スター2人の後始末をするとは、信じられないような話である。

 豪快さと繊細さ。この2つが表裏一体となった三船の性格は彼の俳優としての武器であったが、同時に世間から誤解を受けるような行動の原因にもなった。

 まずひとつは酒。黒澤、稲垣といった偉大な才能を前に、極限までストレスを溜めこんでしまうことの多かった三船は時々酒に溺れ、とんでもない騒動を巻き起こす。ある時は知り合いの家の間でピストル(実弾)をぶっ放し、またある時はオープンカーに乗って黒澤家の周りを「バカヤロウ!」と怒鳴って走り回ったりしたこともあるという。

 また、女性問題でもマスコミを騒がせた。1969年の映画『赤毛』で出会った新人女優の北川(喜多川)美佳と不倫関係に落ち、妻の幸子とは泥沼の離婚裁判の末、別居。さらに北川の間に子供を三船は設けることになる。(その子供が現在タレントとして活躍している三船美佳である)ちょっとした縁でもつい情が湧いてしまい、なかなか関係が断ち切れなくなるのが三船の長所でもあり、短所でもあった。

 酒乱、不倫。相次ぐスキャンダルに加え、自身の経営する「三船プロ」の分裂騒動も起こり、映画出演もままならなくなった三船は次第に過去の栄光は忘れられ、世間を騒がす芸能人として好奇の目に晒されるようになる。晩年は認知症を患い、かつて精気が漲っていたころの三船の面影は跡形もなかった。そして1997年12月、息子たちに見守られながら三船敏郎は永眠する。77歳であった。

 

 本書で松田が描く三船敏郎像は、芝居に対する情熱や、映画を作る現場への気遣いの裏返しとして、自身を追いつめてしまう不器用な男である。もしちょっとでも三船敏郎という俳優に興味を持った若い世代の人がいたら、ぜひ本書を読んでみてほしい。屈強なイメージを醸すその顔の下に、きめ細い思いやりを持った優しい男の姿に惚れるはずだから。

文=若林踏