吉本興業の発展を支えた「いちばんおもろない男」の仕事論

芸能

公開日:2014/8/5

 「まことに青天の霹靂で……」とは新社長の就任会見によくある常套句だが、実際はやる気満々、何年も前から着々と根回し・地ならしをするケースがほとんどだろう。しかしこの人の場合、ほんとうに青天の霹靂だったようだ。吉本興業会長の吉野伊佐男氏である。6月に出版した著書『情と笑いの仕事論 吉本興業会長の山あり谷あり半生記』(ワニブックス)の中で何度も語っている。

「自分には過ぎたるポジションやと(中略)固辞したぐらいです」
「ナンバー2に置いておかれるほうが居心地がええと思ってたし、もしかしたら、そのほうが能力を発揮できたかも分からん」
「いずれトップになるとか、社長が見えてきたとか、そんなことは考えたこともない」

advertisement

 しかし、社長候補と目された人物たちが権力闘争の末に次々と会社を去る中、前任の林裕章社長が急逝し、吉野氏が急浮上。「吉本でいちばんおもろない男」を自認する実務派にして、「情の経営」を掲げる調整型のトップが2005年に誕生したわけである。

 その吉野氏が、当時所属タレントだった島田紳助のマネージャー傷害事件をさばき、社長急逝の混乱や創業家である林家との対立を乗り切り、既にテレビと芸能界を席巻していた吉本の地歩をさらに確固たるものにしていくのだから、人事というものはわからない。当初「緊急登板」とも見なされた吉野氏は社長職を4年あまり務め、現在は会長となって6年目。社歴は社員で誰よりも長く、ちょうど半世紀に及ぼうとしている。

■誰もやらない仕事の中から「専売特許」を見出す

 では、そんなにアクが強くもない「いちばんおもろない男」の回顧録が面白いのかといえば、これが面白いのである。ひとつはタイトルにもあるとおり、仕事論・ビジネス書としての側面だ。なにしろこの吉野氏、タレントのマネージメントや番組制作といった吉本興業の本流というべき華やかな経歴をほとんど歩いていない。

 入社のきっかけは学生時代、吉本興業の株式課でのアルバイト。そんな経緯のせいか、入社から5年間は総務や経理の仕事に就かされる。毎日が嫌で嫌でしょうがなく、上司に異動を直訴する日々だったという。ようやく念願かなって制作部へ異動するも、役回りは「よろず屋」。ギャラの交渉や回収、スケジュール調整、芸人のトラブル処理に奔走する地味な仕事だった。税金滞納でギャラを差し押さえられた横山やすしに同行して税務署へ謝りに行ったり、野球賭博で莫大な借金を背負い、最後は自殺してしまった中田治雄(Wヤング)の相談に乗ったりしていたのもこの頃のことだ。

 そんな裏方仕事の中で吉野氏は
「たとえ不本意な仕事であったとしても(中略)長い人生の中で4年なり5年なり、いっぺんやってみる価値はある。(中略)自分の適性なんか、自分で判断するものやなしに、結局、周りが判断してくれる」
「目の前のことを一生懸命やっておれば、後々になって「ああ、役に立ったなあ」と納得できる時がいつか訪れますよ。仕事って、そういうもんとちゃいますか」
というふうに、達観した仕事観と組織の論理を身につけていく。そして、70年代当時は社内に決まった担当者がいなかったCM営業という仕事を見つけ、自分の専売特許として会社に莫大な利益をもたらし、「吉野は稼げるやつ」と信頼を得ていくのである。

 誰もやりたがらない仕事を拾い上げ、黙々と真摯に務める。そうして長い時間をかけて、周囲に実力を認めさせていく。吉野氏の会社人生は、ニッポンのサラリーマンにとって、ひとつの理想型ではなかろうか。

■怒涛のマンザイブームから学んだ「情」の経営

 もうひとつの読みどころは、吉本興業の100年余にわたる歴史のほぼ半分を会社の一員として目撃してきたクロニクル(年代記)的な面白さ。日本有数のエンターテインメント企業の発展史、また演芸やお笑いの進化史としても、この本は読めるのだ。

 吉野氏が入社した1965年、吉本の経営はどん底で「つぶれかけてた」という。それがボウリング場経営で息を吹き返し、テレビの時代にいち早く乗って上昇気流に転じる。転機は69年放送開始の『ヤングおー!おー!』(毎日放送)。この時から番組の自社制作を始めた吉本は、単にタレントを提供するマネージメント会社から、コンテンツ全般を手掛ける制作プロダクションへと成長していく。現在のバラエティ番組の原型ともいえる同番組は、吉野氏いわく「吉本の産業革命」だった。

 その後、現社長の大崎洋氏が先兵となった東京事務所開設、マンザイブームの到来、芸人養成学校NSCの設立、ダウンタウンを先頭とする東京への大量進出、M-1の隆盛……と、吉本は新しいコンテンツを次々と世に送り出し、時代を味方につけていく。

 そんな中でも吉野氏は常に「ちょっと離れたところ」にいるのだが、唯一、80年代初頭のマンザイブームでザ・ぼんちのマネージャーを務めている。ダブルどころかトリプル・ブッキングも当たり前、ヘリコプター移動でスケジュールをこなし、1日2、3時間の睡眠を点滴で持ちこたえた怒涛の日々。しかし、あまりの酷使に芸人たちは悲鳴を上げ、消耗していく。ぼんちの2人も例外ではなかった。

「(ブームの後)あの子らが一時低迷したのは僕のせいでしょうね。心身ともにすり減らせて、消耗させてしもた。今思い出しても後悔は尽きないし、かわいそうなことをしたと忸怩たる思いを抱えています」

 こうした経験を通じて、芸人との間合いの取り方、「情」の交わし合い、ビジネスと人間関係のバランスを学んだ吉野氏は、トップに立つと、社員や芸人に向けて「情の大切さ」や「メンタルハーモニー」を呼びかけていく。そして、こんな結論に達するのだ。

「時代やメディアがどれだけ移り変わっていこうと、人間の才能を発掘し、発展させること、人の心を動かすことにおいては世界一と言われるような会社でありたい。吉本の次の100年へ向けた、それが僕の夢です」

 「ザ・芸能界」の中心にいながら、その空気に染まらなかった(染まられなかった)吉野氏の人柄がしみじみとにじみ出る言葉である。