ネットで分断される【あなた】を結ぶものとは? 「分人」を物語から読み解く

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/21

TwitterやFacebookといったソーシャルメディアを使うことが当たり前となった。友人・知人・家族・恋人の近況を知ることができる便利なツールだが、それによって「疲れ」を感じることが増えたのも一面の事実だ。

友人が自分には見せたことがない意外な表情を、共有された写真の中で示していたり、恋人が自分以外の異性と親しく交流している様を見て、心がざわついたりと、ソーシャルメディア登場以前には可視化されることがなかった「他人の側面」を目の当たりにして(そして、それは気づかないうちに自分も他者に対して与えていることかも知れない)、多くの人が戸惑いを感じている。ソーシャルメディアやスマートフォンなどのデバイスが進化し、普及が進めば進むほど、こういった違和感、疲れを感じる局面は増えるのだろう。あるいは、人はそういった社会に適応していくことができるのだろうか?

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小説家の平野啓一郎氏が、近年の作品でテーマとして繰り返して取り上げる「分人」が、この問題を紐解く鍵になるかも知れない。「個人」=individualという概念は、もともと日本にはなく、西洋から輸入された考え方だ。キリスト教の影響も大きい、分離(divide)できない存在としての、「個人」という考え方は、しかし現代には馴染まないのではないか? と平野氏は講談社現代新書『私とは何か――「個人」から「分人」へ』でも述べている。1つの人格、キャラクター、立ち居振る舞いで自分も含めた他者と接している、と考えるから、「どうして彼・彼女はこういう風に振る舞うのだろう」「自分はこんな場面にどう対応すれば良いのだろう」という戸惑いや悩みが生まれる。もともと完全に統合された1つの人格=個人が存在しているのではなく、向き合う相手やコミュニティに適した「分人」で接しているのだと捉えれば、生きていくのもずっと楽になるのではないか、という訳だ。平野氏は、大学在学中に芥川賞を受賞したデビュー作『日蝕』(新潮社)以来、小説を通じて、ルネサンス期の人物から現代人まで、普遍的に人が抱える葛藤を描いてきた。彼ら登場人物が葛藤とどう向き合い、乗り越えて行くのか(もちろん打ち負かされる物語もある)――それを考え表現し続けてきた平野氏ならばこそ、辿り付いたのが「分人」という概念なのだ。

2009年に刊行された『ドーン』(講談社)は、その1つの到達点とも言える物語。近未来のアメリカ大統領選を舞台に描かれるこの作品は、主人公もそのクルーとなった火星への有人探査プロジェクト、アフリカで続く泥沼の内戦とそこから生まれたテロ集団・ヴァーチャルな国家、内戦の打開策として開発された生物兵器(いま私たちを悩ましている「蚊」を遺伝子操作したものだ!)、ネット上のbotや人工知能も想起させるAR内で再現された仮想人格、街中に設置された監視カメラとその映像の共有から逃れるための変装技術…など、まさに私たちがいま向き合っている状況のその先を見据えた内容ともなっている。

いま私たちが抱えている葛藤は、技術の進歩によって、よりその深刻さを増すであろうことが、まざまざと描写されるこの物語は、特に序盤は読んでいて「疲れる」作品だというのが正直なところだ。しかし、主人公をはじめ登場人物たちが、「分人」という概念を用いながら1つ1つ問題と向き合い、悩みながらも一歩一歩進んでいく様が、非常に丁寧に描かれている。

例えば、物語の終盤で、火星探査で起こった「ある事件」に悩み続ける主人公に対して、メンターである上司は次のように語りかけている。
「誰も自分の中のすべてのディヴィジュアルに満足することなど出来ない。しかし、一つでも満更でもないディヴィジュアルがあれば、それを足場にして生きていくことが出来るはずだ。君がどうしても、自分の中にそれを見出せないというのであれば、私のところに来たまえ。こうして向かいあって話している君は、なかなかの好漢だと思うがね。」

物語の先に作者がおいているものは、絶望か、それとも希望か――その結末はぜひ読者自身の目で見届けて頂きたい。『空白を満たしなさい』(講談社/2012)、『透明な迷宮』(新潮社/2014)にもつながっていく、作者自身の思索も辿ることで、読後、私たちの抱える葛藤の重さも少し軽くなったような感覚を覚えることができるはずだ。

文=まつもとあつし