官能WEB小説マガジン『フルール』出張連載 【第58回】夏乃穂足『【お試し読み】鬼の涙が花だとしたら』

公開日:2014/9/30

夏乃穂足『【お試し読み】鬼の涙が花だとしたら』

 トンネル工事中に崩落事故に巻き込まれた古林千鳥(こばやしちどり)。助けてくれたのは鋼のような体躯と赤い髪を持つ隻眼の男・森羅(しんら)だった。だが彼は幼い頃に千鳥の父を殺した鬼・シンの面影を色濃く残していて――。手厚い看病と労りの中で心を通わせるうち、森羅に惹かれる気持ちと、謎に包まれた彼の正体への疑念が膨らんでいくが……種族を超えた至高の恋愛譚、開幕!

 

一、

 

 千鳥(ちどり)は一人、真夜中に沢のほとりを走っていた。

 二階の自室の窓から、こっそり抜け出してきたのだ。父親から会うことを禁じられたけれど、たった一人の親友にどうしても会いたくて。

 気持ちが逸(はや)って、月明かりも届かない暗い森の中でも、少しも怖いと感じない。それより、三日も千鳥の部屋に来てくれなかった親友のことが気がかりだった。夜にはいつも通り窓を開けて、空が白むまで眠らずに待っていたのに。

 唯一無二の親友――シンに会えたら、訊いてみたいことがたくさんあった。

 全速力で駆けながら、唇に触れてみる。指先に、息が熱い。心臓が壊れそうなほど高鳴って、頬は燃え出しそうに火照っている。

 千鳥の部屋を最後に訪れた夜、シンはこれまで一度もしなかったことをした。帰り際にそっと、唇と唇を触れ合わせていったのだ。生まれて初めて触れたひとの唇は、マシュマロよりもずっと柔らかく、温かく湿っていた。

(ねえ。どうしてあんなことしたの?)

 微かに触れるだけだった口づけの、意味を知りたい。その夜千鳥の体の中に植えつけられたまま、今も腹の奥や頬を燃やし続けている、消えない熱の意味が知りたい。

(ううん、本当は何も訊かなくたっていいんだ)

 何も話さなくてもいい。顔が見られればそれでいい。だってシンの顔を見たら、きっと千鳥の胸はいっぱいになってしまって、何も訊けなくなってしまうだろうから。

 シン。シンに会いたい。

 

 元々体が弱かった母が亡くなってから、父は十一歳の千鳥とまだ三歳の佳乃子(かのこ)を連れ、父方の祖母が住む郷里、希望谷(きぼうだに)へと移った。

 希望谷に来てからもうそろそろ半年が経とうとしているのに、千鳥はいつまで経ってもよそ者だ。クラスで誰かと組む時にはいつも千鳥が余るし、休み時間にも遊ぶ相手がいないから、一人ぼっちで本を読んでいる。

 転校してすぐの頃、リーダー風を吹かせている一派にへつらわなかったせいかもしれないし、いまだに抜けない東京言葉がいけないのかもしれない。

 けれど、千鳥は、クラスで孤立していることを父や祖母に言おうとは思わなかった。千鳥と佳乃子を育てながら忙しく働いている彼らに、余計な心配をかけたくない。

 それに今は、どんなに学校で独りぼっちでも全然平気だ。放課後には内緒の親友と思いきり遊べるし、夜中に部屋の窓を開けておけば、忍んできてくれるのだから。

 希望谷を流れる希望川を上流に向かって歩き、山桜の古木が一本だけ生えていて草の広間のようになっている場所で、シンとは出会った。シンは、千鳥の特別だ。あの真っ赤な髪も、蜜色の肌も、古めかしい着物姿も、彼を慕う妨げになりはしない。

 彼はカワガラスの餌場やアケビが取れる場所を知り尽くしていたし、木の枝と蔓だけで鮎を釣り上げることもできた。小さな焚火を熾(おこ)して魚を焼いて食べることや、古い熊穴を使って秘密基地を作ることを教えてくれたのも、シンだ。

 二人でした冒険の数々に、どれほど夢中になったことだろう。どんなに楽しかったことだろう。

 学校では、息を詰めて存在感を薄めるようにしていたし、嫌なことがあっても、家では何も問題ないというふりをしていた。どこにいても所在なくて、冷えて 凝(こご)った胸の内が、たった一人の友達といる時だけ溶けたチョコレートみたいに溢れ出す。シンの美しい顔を見ているだけで、言葉を交わさなくても満たされた気持ちになる。

 感情の赴くままにどんなにはしゃいでも、心の柔らかな部分をさらけ出しても、シンなら絶対に千鳥を嘲ったりしない。それは絶対の信頼だった。

 

2013年9月女性による、女性のための
エロティックな恋愛小説レーベルフルール{fleur}創刊

一徹さんを創刊イメージキャラクターとして、ルージュとブルーの2ラインで展開。大人の女性を満足させる、エロティックで読後感の良いエンターテインメント恋愛小説を提供します。

9月13日創刊 電子版も同時発売
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