君は洲崎球場を知っているか ―プロ野球黎明期を支えた伝説の球場の秘められし記録

スポーツ

更新日:2016/3/14

 2014年は、プロ野球がはじまって80周年の節目だったらしい。とは言っても、それは読売巨人軍が結成されてから80年目というだけのこと。実際にリーグ戦が始まったのは1936年からだ。そんなわけで、巨人ファン以外は今年がプロ野球80周年であることを決して認めなかったなどという話がある。

 そんな話はともかく、いずれにしてもプロ野球には長い歴史があるというのは紛れもない事実だ。そして、当時“職業野球”と呼ばれていた黎明期に常打ち球場として使われていた、ひとつの廃球場を取り上げたのが『洲崎球場のポール際 プロ野球の「聖地」に輝いた一瞬の光』(森田創/講談社)である。

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 洲崎球場は、現在の東京都江東区新砂(地下鉄東西線の東陽町駅近く)にあった野球場。職業野球の最初の公式戦が行われた1936年の秋に落成し、翌37年にかけて沢村栄治のノーヒットノーランや川上哲治のデビュー戦、そして今も語り継がれる沢村vs.景浦の伝統の一戦と、数々の名勝負が繰り広げられた。まさしく職業野球黎明期の歴史を体現している野球場なのだ。

 だが、その洲崎球場、凋落までも早かった。1937年に後楽園球場ができると開催試合数は激減。37年には92試合開催されたにも関わらず、38年にはたった3試合しか開催されなかった。海沿いの埋立地に建てられた球場だったため、外野席には蟹が這いずり回り満潮時にはグラウンドにまで海水が浸水するような有り様。スタンドも突貫工事そのもので、バラック造りに毛が生えたようなものだった。そんなわけで、都会の真中に職業野球専用として後楽園球場ができたのだから、洲崎球場がその役割を終えるのも当然のことだったのだ。

 こうしてわずかな期間で姿を消した洲崎球場は、黎明期に数々の名勝負が行われたこともあり、伝説の球場として野球ファンの記憶に刻み込まれた。だが、時代が進んでいくに連れて、数年間で閉じた球場の記録はほとんど失われ、その実態はほとんどわからなくなってしまっていた。本書は、古地図や膨大な新聞記事などの中から洲崎球場にまつわる資料を探し出し、伝説の球場の実態を明らかにしている。

 特に注目すべきは、ただ球場の場所や大きさ、どんな試合が行われたのかだけではなく、洲崎球場にまつわる背景も丁寧に洗っているところ。洲崎といえば、戦前から戦後にかけて東京随一の遊郭街「洲崎パラダイス」があったことがよく知られている。もちろん球場も無関係ではなく、球場を建設した国民新聞が警察OBを代表に招き入れ、洲崎パラダイスのドンであった地場のヤクザの支援も受けていたというエピソード。

 また、今も東京の発展の象徴のひとつになっている江東区エリアが、洲崎球場建設当時も満州事変に伴う好況に沸く東京の象徴的エリアとして発展を遂げていたという記述も興味深い。職業野球が開催されなくなった洲崎球場で、近隣の小学校の運動会が開かれたという。生徒数が多すぎて校庭が使えなかったために球場を利用したそうだが、そこからも江東エリアの人口が爆発的に増えていたことが伺える。

 しかし、そんな希望に満ちた洲崎球場も、戦争という魔物に巻き込まれていく。洲崎球場で名勝負を繰り広げた沢村栄治も景浦将も徴兵されて戦地で命を落とす。完成した頃はまだまだ希望に満ちていた世の中に、暗雲が立ち込めるとともに姿を消す。洲崎球場の解体は、鉄供出の一環だったのではないかと本書は推察している。洲崎球場は、あの戦争に翻弄された職業野球をある意味で象徴するようなひとつの野球場、といえるのかもしれない。

 今でこそ、誰もが知っているメジャーカルチャーとなったプロ野球。しかし、黎明期には蟹が這うような球場で試合をし、そこで伝説の名勝負が生まれたということを、野球ファンならば知っておきたい。そして、その球場が時代の波にもまれてほとんど記録されないまま姿を消したことも、心に留めておきたい。

 プロ野球80周年の節目がいつなのか。それは人によって別れるところかもしれないが、少なくとも80年近い歴史の中には、「洲崎球場」が間違いなくあったのだから――。

文=鼠入昌史(Office Ti+)