ヤマンバ、イベサー、ガングロ…ギャル・ギャル男はどこに消えたのか? 【元・イベサー「ive.」四代目代表 荒井悠介氏インタビュー】(後編)

社会

更新日:2014/12/29

荒井悠介さん

 時代とともに「ギャル」は異質なものではなくなっていく。そのカルチャーは、タテ、ヨコへと広がり、2008年のリーマンショック、2011年の東日本大震災の影響で、その流れは加速する。そして、ギャル雑誌が相次いで休刊となった2014年、どのような形で「ギャルカルチャー」は継承されたのか。日本で唯一の「ギャル文化研究」を専門に行う異才の研究者、『ギャルとギャル男の文化人類学』の著者である荒井悠介さんに、今のギャルの現状についてきいた。

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リーマンショックと監視カメラが渋谷を変えた

―悪徳成功モデルの衰退

 2009年以降、東京のギャルシーンは大きく変わりました。多くの要因が重なり、それが表面化したのがこの年だったと思います。そのひとつの原因が、前年の2008年に起きた「リーマンショック」だったと思います。

 それまでは2000年頃の「ITバブル」などもあって、リーマンショック以降、ワルたちの「悪徳成功モデル」…つまり詐欺をやったり、水商売をやったりしてのし上がっていく、という成功モデルが衰退していったのではないかと考えています。僕らがイベサーをやっていた2000年前後は、周りにバブルを知る人たちがいたのでその残り香があったり、ITバブルもあったので、今はちょっと悪いことをして資本金を貯めたり、スポンサーを見つけて自分も将来は…と思っていた人が多くいたんです。

 またこうした層がキャバクラなどに金を落としていたのですが、リーマンショック以降は金が回らなくなって夜の街へ行かなくなり、『小悪魔ageha』で「アゲ嬢」と呼ばれていたようなキャバクラ嬢たちの生活もジリ貧になっていきました。闇金系、詐欺系の仕事の人も東京のキャバクラの主要な顧客でしたが、そうした人たちも以前のように派手に金を落とさなくなります。すると行き過ぎた髪の毛の「盛り」が減るなど、ヘアメイクやファッションにかけられるお金が減少したことがキャバ嬢たちに如実に現れました。そこへ2011年に「東日本大震災」が起こり、社会全体が堅実路線へとシフトしていったこと、そして道徳的間違いを許さないという社会的雰囲気も強まり、追い打ちをかけたと考えています。

 リーマンショック以前はリベラルな機運が強く、水商売やグレーゾーンのビジネスがかっこいいものとして描かれ、取り上げられることも多かったと思います。悪徳を踏み台に一般の経済社会へとのし上がっていく人たちのことも同様に評価され、ネガティブな経歴を持つ人が過剰に評価される風潮もあり、セルフプロデュースに役立つ「物語」と「カリスマ性」を求めて、若者がそのような道に走ることもありました。しかし経済的にも社会的にも「悪徳を成功に結びつけること」が悪いこととして捉えられるようになり、リスクばかりが増大したことが悪徳成功モデルの衰退に結びついたと考えられます。

―ギャルカルチャーの広まりと産業化

 近年ギャルファッションが一般にまで広がって「産業化」したこと、そしてそれに寄与した読者モデルの役割が拡大していったことは、渋谷のイベサーに大きな変化を与えたと思います。それまでは悪徳成功モデルでのし上がろうとする若者、成功する野望のある人、読モから有名ブロガーやタレントに転身する夢を持っている人などがサークルに入ってきていました。

 しかし読モらの活躍などによって一般層にまで渋谷のギャル文化が流行したこと、そしてギャルファッションが産業化したことによって間口が広がり、先鋭的な部分や不良性が薄まり、ギャルファッションは普通の人のものになりました。ギャル文化はエッジィなものではなくなってしまったのです。

 かつてイベサー最大の合同イベントであった「Campus Summit」も、リーマンショックのあった2008年に47都道府県、55会場で開催されたのをピークに開催地域や会場数が減少、後発の合同イベント「D-1 Dream Project」も同様です。そしてこうした多くの人が参加するイベントは、イベサーの低年齢化と加入メンバーの幅を広げることになりました。

 またイベサーに関わっていたOBがギャル産業の会社を起業することが多く、イベサーの活動がギャル産業と結びつくものに変化していきました。かつてイベサーのアウトサイダーなカラーを敬遠し、雑誌などは僕たちと一定の距離を置いていましたが、ギャル産業と結びつくものになると雑誌とも協力関係が結ばれ、イベサーを通じた読モのリクルートが始まったんです。これが読モの活躍につながっていきます。

 そしてイベントのスポンサーとなる企業のコンプライアンス問題もあり、悪いことをしている人たちはどんどん排除されて、ギャル産業はクリーンになっていきました。そしてそれまで自分たちのアイデンティティを向上させる目的でイベサーが独自に開催していたイベントは、ギャル産業や企業と結びついたものになっていきました。

 ギャル産業の拡大は、イベサーに入る若者の活動の目的や加入層を変化させました。そして自浄作用によって業界がクリーンになっていった反面、かつていた高学歴で家庭環境もよく、野心家で、キャリア形成とカリスマ性を得ようとしていた若者は減少しました。これは実力のある若者をイベサーから失うことになり、シーン全体としては「テキ屋のいない祭り」のような状態を生み出しました。

―2004年、渋谷に「監視カメラ」を設置

 僕が個人的に「渋谷の街が変わったな」と感じたのは、2004年に渋谷に監視カメラが設置された時ですね。設置以降、後ろ暗いところのある人たちはセンター街に寄りつかなくなり、ストリートに人が集まることが難しくなったと思います。また未成年者の飲酒、喫煙、深夜徘徊についても取り締まりが強化されたことも、ストリートに人が集まらなくなった理由として大きいでしょう。これらは同時にイベサーOBなどが関わっていたスカウトマンなどに対する取り締まりも強化されています。

 悪徳成功モデルのところでもちょっと話しましたが、かつて悪いことをしていたサー人が多かったのは、サークル活動にとにかくお金がかかったからなんですよ。付き合いや活動、イベントでお金がかかるし、バイトする時間もとれない。僕も携帯電話を何台か持っていて、通信費だけで月に10万円以上かかっていました。それくらいお金がかかると、悪いことをして手っ取り早く稼ごうと思う人たちも出てくるんですよね。なので昔のサークルでは本当にお金持ちで、親からお金をもらうか、悪いことや水商売をして稼ぐという二種類の人たちがいたんです。僕は自分のおばあちゃんに助けてもらっていました。もちろん後輩たちには内緒にしていましたけどね(笑)。

 でもウィルコムや携帯電話のかけ放題プランが出てきたり、無料のLINEなどもあって、今は一定以上の通信費もかかりません。また高いものを持っているのがステイタスというハイブランド志向もなくなってしまったので、今の若い人たちはとにかくお金を使わなくていい。だから悪いこともしなくなった、ということがあると思います。

―「不良文化」は存在した

 渋谷の誇るべき文化に「前の世代や自分たちの悪い部分を受け継がないようにしよう、悪いことはやめていこう」という美意識があるんです。これはやっぱりボンボンたちが中心だったイベサーだからできる、ある意味でのキレイ事なんですけど、悪いことは回りまわって自分たちの首を締めることになるからやめよう、という文化があったんですよ。「将来は表の世界で成功したい」という気持ちを持っている奴らですから、悪くなったらいいことないんですよ。

 渋谷のイベサーって、なんだかんだいって売られたケンカは買うし、「ポッと出」が来たらシメたりするというような「不良文化」である側面は否めませんけれど、「前の世代の悪い部分を受け継がない」というのが、地方のヤンキー文化と一番違う部分なんじゃないですかね。

 それは渋谷に残って仕事をしているOBの連中にも言えます。もちろん中にはどうしょうもないヤツも数多くいますし、ギャル産業を起業した人に関しても、褒められるようなことをしてきた人間ばかりではありません。ですが、悪いことをしてもっと儲けようというヤツは少ないんです。たとえ損になったとしても「悪いことはやめよう」という美意識があって、踏み止まっている連中がいます。こういうヤツらがカリスマ性を持ち、人を集め、その背中を後の世代が引き継いでいくという側面もあるんです。ただ実際にはこうした美意識が渋谷の不良文化を無害化させ、不良ならではの格好良さを無くし、イベサーが少なくなって、自分たちの首を絞めることになったのかもしれませんが。OBから現役世代に至る人たちが、非合理的ではあるけれども、美意識によって行動する…それが渋谷の文化の本当にカッコイイところだったのではないか、というのが当事者としての私の感想です。

ギャルは減り、「安全路線」な子が増えた

―渋谷ギャル憧れのスクール

 私は2007年から渋谷にあるギャルの学校「BLEA」のカリキュラムに関わるようになったのですが、入学する女の子の層が広がってきているなと感じますね。初めはセンター街にいるようなギャルが多かったんですが、今はジャニーズ好きやバンド好きの普通の黒髪の女の子たちも美容やファッションに興味を持って入学してきます。とにかく今はいい意味で「安全路線」な子が増えましたね。真っ当に勉強して、真っ当に生きていく、という子がほとんどです。オタク趣味やアニメなどの趣味を持つ子もいますよ。

 そして最近増えているのがグローバル思考が強く、海外留学や英語修得に意欲のある生徒です。もちろん昔ながらのギャルもちゃんといますよ。ただ「強度」は最盛期よりも下がってますけどね(笑)。 もともと「ギャル」と呼ばれていたエッジィな層、ローカルなヤンキー、そして普通の子の線引きは非常に曖昧になっていて、今では混ざり合っているなと感じます。

―ギャルの後継者

 従来の渋谷のギャルの正当な後継者には「ネオギャル」という存在があります。彼女たちはヤンキーのように地元志向ではなく、性格はアグレッシブ、経済的に余裕のある家庭出身の人が多いですね。そして文化や経済のグローバル化を非常に意識していて、ファッション面では髪の毛がプラチナのように明るく、肌は色白です。代表的なのはモデルの植野有砂さんや、串戸ユリアさんなどです。

 また水商売系のギャルの一部も「ネオギャル」に含まれます。彼女たちの中には、そこで得た資金をもとに海外留学を目指す子もいますし、従来からいたような自分の店や会社を経営したいと思っている野心家の子たちもいます。彼女たちも渋谷ギャルたちの後継者といえるでしょう。

 昔から「傾奇者」や「モダンガール」と呼ばれていたような、最先端を追い求める人たちというのはどの時代にもいるものですよね。

―「渋谷」は頂点だった

「なぜ渋谷に集まっていたのか?」とよく聞かれますが、それは「一番の場所で一番になりたかったから」です。当時の渋谷はファッションや文化の発信地として機能していた、威信があった場所であり、それを見せやすい場所だった。だからメディアも現象として扱いやすかったんだと思います。

 それを利用して人目を引くこと、雑誌に載るということをしていた部分もありましたね。メディアに出るのはカッコイイ、イケてるヒエラルキーの上に行けるっていうことがあったのは事実です。ヤマンバやセンターGUYなどはその典型です。

 ただそれは渋谷に集まっていたサー人のマジョリティではなかったんです。今では下火になった読モブームが起こる以前は、95%くらいの人はヤマンバみたいな突飛な格好はしてなかったんですよ。それはあくまで雑誌などに出たいというのは「スタート」であって、長く渋谷にいるヤツらはそれを「ゴール」にしていなかったからなんです。イベサーにおけるギャルやギャル男というのは、単にファッションの問題だけではなく、大袈裟に言えば「生き方」の問題だったんです。一番価値があることは、渋谷のリアルな空間で威信を持ち、名前を売ることでした。実際の渋谷のストリートで一番イケてる、というのが価値観の最上段にあったんです。いくらメディアに出ていても、ストリートで名前が売れていない、威信のない人間には価値がないんです。これは僕らの文化的な先輩にあたる、同じセンター街にたむろしていたチーマーの人たちともある程度共通するものだと思います。ギャルカルチャーが産業として発達し、読モの位置づけが変わった後の世代や、現在の若者とはずいぶん違うと思いますが。

 今でも渋谷にはこれまでに培ってきた歴史がありますし、象徴的な価値がなくなったとは言えないと思います。ただ昔よりも実利はなくなったことは確かでしょう。渋谷に集まるという「物理的な意味」がなくなってしまったんですから。

 でもそこに集まっていたギャルたちは、日本中、そして世界に広がる「文化」を残しました。そしてこれからも、その「ギャル文化」は形を変えて残っていくものだと思います。

取材・文=成田全(ナリタタモツ)

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荒井悠介●1982年、東京都生まれ。明治大学入学後、2001年にイベサー「ive.」に参加。後に代表として渋谷でトップのサークルに押し上げる。大学卒業後に慶応大学大学院へ進み、ギャル文化を研究、修士論文をもとに『ギャルとギャル男の文化人類学』(新潮社)を著す。慶應義塾大学SFC研究所上席所員(訪問)を経て、現在は日本学術振興会特別研究員(DC2)、一橋大学大学院社会学研究科博士課程に在籍し博士論文を執筆中。ギャルの憧れの学校「BLEA」にて教育に関わり、明星大学非常勤講師なども務めている。