頭でっかちな読書から体験する読書へ――『坂の上の雲』に水陸両面から近づく

暮らし

公開日:2015/1/16

 現在、NHKでもドラマの再放送も行われている『坂の上の雲』。司馬遼太郎が日清・日露戦争を描いた歴史小説だ。ロシアのバルチック艦隊、そしてコサック騎兵隊を打ち破った秋山真之・好古兄弟と、「写生」と呼ばれる手法で俳句や短歌の世界に革新を起こした正岡子規の3人の活躍を軸に、明治時代の日本人の気風が鮮やかに描き出されている。

 筆者は20代のころ、『竜馬が行く』のような幕末維新期をテーマにした作品から歴史小説にハマったが、現代にもその影響を色濃く残す明治期の人物たちの、大らかで実直な生き様や、貧しさの中でも物事を学んで前に進む姿勢に強い感銘を覚えたものだ。そのあり方は、維新前の封建時代からの解放と、そこから生まれた機会を掴もうとする貪欲さも背景にあった訳だが、太平洋戦争後、そして震災後の復興を生きる私たちにも通じるものがあるだろう。

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――と、堅苦しい紹介をすることが今回の記事の目的ではない。筆者も含め多くの人が繰り返し読んでいるこの『坂の上の雲』の世界に少しでも近づきたい、と(結果的に)考え、アタマではなくカラダから飛び込んでみた、という話だ。物書きである自分の場合、小説家を志した後、新聞記者を経て、結核を患った晩年まで俳句に取り組み続けた子規のシチュエーションは、なんとなく理解できる。だが、馬を操り、船で敵と向き合うというのは、いったいどんな感じなんだろうか?

 乗りたい、乗ってみよう…。

 だが、馬も船も「上流階級の嗜み」といったイメージがある。「乗馬クラブ」とか「マリーナ」とか、まずは会員権を買わないと行けないんじゃないか?紹介がないと入れないんじゃないか…。
しかし、そんな心配は杞憂だった。十分リーズナブルで、しかも、体験だけでなく「資格」というオマケも付いてきた。

 まずは馬。クーポンサイトには乗馬体験を謳うものがたくさん出ている。「1万円で5級ライセンスが取得できる」というものを選び、3日間通うことに。千葉県にあるこの乗馬クラブは交通の便が決して良いとは言えないが、選手養成学校も併設された本格的な場所だった。クーポンには、現地までの送迎バスと馬具のレンタル料も含まれておりリーズナブル。学校側としては、これをきっかけに乗馬の楽しさを知ってもらい、更に別コースを申し込んでもらおうという狙いがあるが。

 子どもの頃にポニーに跨がったような記憶はあるが、サラブレッドははじめて。スタッフに助けてもらいながら鞍にまたがると、視界の高さにちょっと怖さを感じる。手綱を握り、やさしくお腹を蹴ってあげると、馬はゆっくり歩き出す。3日間で馬を歩かせ、左右に操り、「軽速歩」と呼ばれる騎乗姿勢を取れるようになるまでが、5級の守備範囲だ。馬の体の部位や馬具の名前を答えるペーパーテストも最後には控えている。

 実際に体験してみないと分からないことは沢山ある。乗馬にはそれぞれ性格や癖が異なる馬との信頼関係がとても大切。1つの動作が終わる毎に褒めてやるが、それでもなかなか言うことを聞かない馬も居る。そして馬は賢く大人しいが、とても神経質な生き物だ。砲火や怒声が飛び交う戦場で活躍した馬の凄さを改めて知った。主人との強い信頼関係がなければ、とてもあんな場所で駆け回れないはずだ。

 途中、この乗馬クラブを紹介してくれた知人が、お尻から落馬して数週間痛みが取れなかったりと、紆余曲折あったが何とか5級ライセンスを取得することができた。

 次は船だ。

 こちらは、ヤマハ発動機(株)が力を入れているマリン事業部さんの紹介を得て、「2級小型船舶操縦士免許」をこちらもやはり3日間で取得できるコース(ヤマハボート免許教室)に申し込んだ。こちらはさすがに馬のような金額では納まらなかったが、免許を取得できれば20トン・24m未満の小型船舶を操縦できる「船長」になれるのだ。

 まず初日は9時~17時までみっちり学科講習がある。日本海海戦でも重要な意味を果たした旗信号をはじめ、海図の読み方、ロープの結び方から船のメンテナンスまで、自動車とは全く異なる交通ルールやノウハウをこれでもかと詰め込んでいく。横浜の会場はマリーナの目と鼻の先だが、この日はそれを横目に見ながら教室にほぼ缶詰だ。2日目は実技講習となり、ようやく、船に乗ることができる。友人が操縦する船には乗せてもらったことはあったが、自分で舵を取るのははじめて。指導員が最終日の国家試験の内容に沿って、実際に海の上で、離岸・着岸からブイを人に見立てた人命救助まで、やはり丸1日かけた講習を行ってくれる。

 馬と違って、船は自分の意思通りに動く――と思ったら大間違い。潮の流れや風の影響も受けるし、小さなボートでは、他の船が作る波の影響もまともに喰らう。講習の最中には海の真ん中でエンジンを切る場面も多かったのだが、まさに水面に浮かぶ木の葉のような頼りなさを感じた。船の大きさは全く異なるとはいえ、レーダーも存在しなかった明治時代、それも天候が荒れがちな日本海で、ロシア艦隊を待ち構えた当時の日本人たちはどんな気持ちだっただろうか?

 実際のところ、講習と試験対策で忙しく、試験本番が終わるまではそんな感慨に浸ることなど出来なかったが、無事試験に合格し、免許の交付を受けたあと、『坂の上の雲』を読み返すと、馬の駆ける音、息づかい、激しい波の音と、波浪に翻弄される船の様子が以前とは全く違う感覚でわき上がってくる。

 ここまで、はじめから『坂の上の雲』の世界に近づくために、この2つの資格を選択したかのように書いてきたが、実はそうではない。飽きっぽい自分が、「熱」を維持できたのはなぜだろうと、あとから「坂の上の雲」の存在に気がついたのだ。忙しい仕事の合間を縫ってここ数カ月の間に自然と足がそこに向き、資格を取得するまでに至ったのは、知人のお陰もありつつも、無意識のうちに作品の魅力が背中を押してくれていた面が大きかったと思う。

 作品の舞台を訪ねるいわゆる「聖地巡礼」も良いが、登場人物達と多少なりとも近い境遇に実際飛び込んでみる「体験型読書」の魅力を自分なりに開拓できたようだ。ちょっと変わった読書の楽しみ方の1つとして参考になれば幸いだ。

取材・文=まつもとあつし