日本のバレンタインチョコ習慣、その起源は昭和初期に遡る【バレンタインの歴史いろいろ】

社会

更新日:2015/2/14

 女性が思いをチョコレートにのせて男性へと贈る、バレンタインデー。しかし、欧米では女性から男性へというルールはないし、チョコレートが定番というわけでもない。「愛の日」としては世界各国で共通で祝われるイベントであるが、そのルーツを正しく理解している者は少ないだろう。

 浜本隆志著『バレンタインデーの秘密 愛の宗教文化史』(平凡社)では、そのバレンタインデーの系譜を解き明かそうと試みている。浜本氏によれば、バレンタインデーの起源をさかのぼっていくと、古代ローマの冬至祭のひとつ、ルペルカリア祭までさかのぼることができるそうだ。

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 ルペルカリア祭は、ローマの豊穣を願う祭りで、古代ローマの創設の聖地パラティーノの丘で毎年2月15日に執り行われるものだった。神官をリーダーにして集まった若者たちは2つの集団に分かれると、供犠のヤギの皮を剥いでつくった皮ヒモを振り回し、競争しながらパラティーノの丘を半裸で走り回った。そして、ヒモで若い女性たちを勢いよく叩いた。女性たちにとって精霊のこもった皮ヒモによって叩かれることは、安産と子宝が約束されるもの。彼女たちは、その儀礼を受けるため、集まって鞭打ちを願ったという。

 こう聞くと、何やらSM的な要素のある祭りのように思えるが、この祭りはローマ建国の翌年の紀元前754年頃から始まり、ローマ教皇ゲラシウス一世が496年に廃止するまで、1250年も続く人気の祭りだったらしい。その人気の理由というのは、この祭りが「男女の出会いと乱交の場」であったことにあると浜本氏はいう。

 また、ルペルカリア祭は前夜祭として、男女の出会いのきっかけとなるクジ引きが行なわれていたとも言われている。壺に女性が名前を書いた札をいれ、男性がそれを引いてカップルを誕生させ、1年間自由恋愛を楽しんだ。男女の出会いの機会をつくり、生命の誕生を促し、ローマの反映を願うというのが、この祭りの目的だったのだろう。

 しかし、西ローマ帝国が崩壊し、キリスト教が次第に定着、拡大していくと、ローマ教皇ゲラシウス一世は、2月15日のルペルカリア祭の前夜祭を、「聖バレンタインデー」と呼び、その内容を変更することにした。ローマ帝国の豊穣を願い、乱交を良しとする祭りはキリスト教の倫理観にそぐわなかったのだ。だが、民衆にとって、ルペルカリア祭は人気あるイベントで、全面的に廃止することは難しい。

 そこで、ゲラシウスは、この時代よりも200年も前の2月14日に殉教した聖バレンタイン伝説が持ち出した。聖バレンタインは、ローマ軍の士気が低下するという理由で敷かれていた結婚禁止令に反抗して秘密裏に相思相愛の男女を結びつけたといわれる人物だ。男女の恋を成就させたことが原因で投獄、2月14日に斬首されたといわれるが、伝説的な人物であり、その略歴は史実とあわない部分も多い。

 しかし、異教の祭りを形式的に継承しながら、内実をキリスト教化するために、この伝説を用いるのは好都合だったのだろう。そして、次第にバレンタインデーは男女問わず、恋人や親しい人にケーキやカードなどの贈り物をプレゼントする日と変貌していくこととなった。

 日本において、バレンタインデーを提唱したのは、モロゾフ社。1936年2月12日、チョコレートの販売を増やそうとしたモロゾフ社が東京の英字新聞『ザ・ジャパン・アドバタイザー』に出したチョコレートの広告が始まりだとされる。この発想はモロゾフの息子である菓子職人の名前がバレンタインであったため、欧米のバレンタインデーの習俗と連動させて生まれたのではないかと推測されている。この広告の効果は低かったが、その後、1960年代、森永製菓が女性週刊誌『女性自身』でバレンタインデーの広告を打ち出して以降、次第に日本においてバレンタインにチョコレートを送る風習が定着していくようになった。

 バレンタインデーには、元々チョコレートなど無関係。クジ引きで出会いを提供したり、SM的な鞭打ちと乱交で男女を結びつけるイベントだったのだと思うと、その歴史に驚かされることだろう。どんな行事もいわれなど気にせず、楽しんでしまう日本人のポジティブさに感嘆せざるを得ない。まぁ、バレンタインデーが「愛の日」であることは変わりない。行事は何でも楽しんだもの勝ちなのかもしれない。

文=アサトーミナミ