「中央線」はなぜ人を惹きつけるのか? ―中央線の持つ“魔力”

社会

更新日:2015/4/18

 以前、地方出身の知り合いに言われたことがある。「東京に出たら、高円寺の近くに住むのが夢だった」と。かくのごとく、“中央線沿線”に憧れを抱く人は少なくないようだ。吉祥寺は毎年「住みたい街」1位に選ばれたりしているし、中央線沿線を取り上げる街あるき本も数多く出版されている。子供の頃から毎日のように中央線を利用し続けている立場からすると、あんなに混んでいてすぐに人身事故でダイヤが乱れる路線のどこがいいの?と思うのだけれど、まあとにかく中央線には人を引きつける“何か”があるようだ。

 そんな中央線、歴史は古くて開業は今から120年以上遡る1889年。前身の“甲武鉄道”によって新宿~立川間が開業した。この時、中野駅・武蔵境駅(当時は堺駅)・国分寺駅も開業している。その後、順次西へ東へ路線を伸ばし、現在の姿になっていった。

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 これだけ長い歴史があるならば、エピソードもたっぷり残されているし、それに伴う“謎”もたくさん残されている。例えば、東中野駅付近から立川駅付近までひたすら真っすぐに東西を走る理由。『JR中央線の謎学』(ロム・インターナショナル/河出書房新社)によれば、蒸気機関車の煙を気にした甲州街道沿いの住民たちの抵抗で用地買収が難航したためだとか、甲州街道と青梅街道の中間地点に建設して両街道いずれの需要も取り込もうとしたとか、そんな説があるという。

 また、高円寺が“音楽の街”などと言われる理由として、1968年にオープンしたロック喫茶「ムービン」の存在や吉田拓郎の『高円寺』という曲の存在が挙げられている。西荻窪駅周辺にアンティークショップが多く立ち並ぶのは、戦前この地に屋敷を構えていた軍人たちが戦後屋敷を手放す際に家財道具を売り払ったのがきっかけだったとか。

 このように、『JR中央線の謎学』には、中央線を愛する人にとってはおもわずニヤリとしてしまう謎=ネタが満載だ。太宰治が好んで歩いた三鷹駅近くの跨線橋のエピソード、「吉祥寺」という駅名・地名と「吉祥寺」というお寺の関係、現在の中央線快速の車両E233系に秘められた気遣い、中野ブロードウェイは高級マンションの先駆け的存在だった…などなど。

 これだけいろいろなネタが豊富に集まっている鉄道路線は他にないのでは…と思えてくる。もちろん、他の路線にだって“ネタ”はたくさんあるはず。けれど、中央線は独自の“文化”を持っているからこそ、こうしてあちこちからネタが集まり、そして語られる。鉄道ファンが喜ぶネタからサブカル好きがニヤつくネタまで、まさにちょっとうんちくを垂れたくなるネタの宝庫。もしかすると、それが中央線の中央線たる所以なのかもしれない。

 実は、中央線の“沿線文化”はとても稀有な例。たしかに、東急や阪急などの私鉄各社は鉄道事業と同時に沿線開発を行ったため、独自の“私鉄沿線文化”を築いている例が多い。けれど、現在のJRにつながる路線は沿線開発をして乗客を増やすというよりは、国策によって地域と地域の拠点都市を結ぶべく作られている。そのため、沿線に独自の文化が生まれる例はあまり見られない。中央線も東京と甲府を結ぶ路線というのがその本質だったのだが、それが今では中央線文化は沿線文化の代名詞といえるほどの存在感。

 果たして中央線が持つ“魔力”は一体何なのか。『JR中央線の謎学』には、その答えの一端があるような気がしてならない。

文=鼠入昌史(Office Ti+)