震災後の時間を生きる個人とその家族の運命を描いた最新作『持たざる者』【金原ひとみインタビュー】

文芸・カルチャー

公開日:2015/5/7

 デビュー以来、金原ひとみさんは共同体から孤絶した個人を描き続けてきた。主人公の多くは、金原さん自身のプロフィールやイメージに重ねられてきた。『マザーズ』(2011年)で初めて家族小説に挑戦した金原さんは、六人六様の結婚生活を描いた短編集『マリアージュ・マリアージュ』(12年)を経て、震災後の時間を生きる個人とその家族の運命を描いた本作に辿り着いた。

「インタビューなどで次にどのようなものが書きたいですかと訊かれると、デビューからずっと家族小説と答えてきました。気がついたら家族小説の世界に入りこんでいた感じです。結婚、出産、子育てと、私自身の実体験とリンクさせながら書くことで、結婚後の家庭生活が小説の重要な要素として自然な形で立ちあがってきました。デビューからしばらくは恋愛が中心で、一対一の関係であったり三角関係であったり、二、三人の狭い世界を一人称の視点で書いていました。『マザーズ』辺りから、一人の視点だけで物語を成り立たせることが難しくなってきました。そうして辿り着いたのが、章ごとに語り手をチェンジさせる一人称多視点の方法でした」

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 実は、これまで発表された金原さんのすべての小説が一人称小説である。作者自身が語り手と融合し、一体化したかのような一人称のナラティブが、物語の臨場感を支えてきた。

「三人称で書くことに苦手意識があるんです。読者として読む場合も一人称小説の方が好きですね。作品を読み終えた後、あれっ、語り手は一人称だったかな三人称だったかな、と思いだせないものも多いので、物語の内容にはそれほど大きな影響を与えないのではないかと考えています。私たちが面と向かって対峙しているこの世界に近い、ありのままのものを小説で描きたい。そのためには敷居を高くせず、作りこみはなるべく避け、同じ目線で語るのがベストではないかと。等身大の現実を読者にスムーズに伝えるためには、一人称が一番だと考えたからです」

 それぞれの章の主人公の名前が付けられた四つの章から『持たざる者』は成っている。「Shu」の章の主人公は、三十七歳のグラフィックデザイナーの保田修人。時代の尖端を走る有名デザイナーであった彼だが、震災を機にまったく仕事に手が付かなくなる。妻と生まれたばかりの娘を放射能から避難させるべくとった行動が夫婦間の対立を生み、彼は離婚へと追いこまれる。タワーマンションを出て、六畳一間のアパートでひきこもりぎみの生活を送る修人は「不能感と憂鬱」に苛まれている。そんな彼の前に、滞在先のシンガポールから一時帰国した友人の千鶴が現れる。

「私も震災で大きな影響を受けました。ちょうど臨月でした。もともと育休でしばらく休むつもりでいましたが、次のものをと考えても書けない状態が続きました。その時のどん底の心理状態が反映されたのが修人です。修人は家族を放射能避難させようとしますが、その思いは通じず、それどころか対立を生んでしまいます。震災後に、この人ってこういう考え方をする人だったんだと、びっくりするような発言や態度に何度も接しました。同じようなことを考えているだろうと思っていた人が、まるで違うことを考えていたことの不気味さを、社会の最小単位の家族の中で表現してみました」

 金原さん自身も、震災後に東京を離れ、現在はフランスに生活の拠点を移されている。

「震災は一つの契機でした。それまでの生き方や考え方を変える、一つのきっかけになったと言えばいいでしょうか。震災前は子供のことをふくめてある程度未来のプランを練っていました。あらかじめ想定した自分の人生から外れる機会って、すごく限られていると思うんです。震災翌日に岡山に行き、向こうで出産して、東京に戻るか岡山に住み続けるか考えている時、生まれて初めて海外に住んでみようかなと思ったんです」

 放射能の脅威に脅える修人は、起こりうることの最悪の状況を考え、それを避けるために具体的な行動を起こしていく。しかしそのアクションによって、彼はさらに追いこまれていく。この状況設定は、金原さんの小説の主人公に共通するものだ。

「私自身が悲観主義で、常に最悪のことを想像する人間だからです。いつも恐ろしいことばかり考えています。想像が現実を追い抜いていく。自分の想像力に自分が敗けてしまう。楽観的な人間になりたいと思う一方で、なぜそのようにいられるのかが解せないんです。今回の小説では、主人公の四人とも生きている世界は異なるけれど、その人なりに最善の選択をしている点で通じています。そうやって生きていても、相反するものが出てきてしまうことを同時に書きたかったです」

 二つ目の章「Chi-zu」の主人公は千鶴。修人の章では触れられなかった千鶴の抱えた問題が語られていく。かつて性的関係をもちながらも、結婚後は友人として修人とつながりを持つ千鶴であるが、夫とともにシンガポールに住む千鶴にも精神の原発事故は起こっていた。自分に何も落ち度がない状況で、急性脳症によってひとり息子を失う。彼女は子供の死が妊娠中に修人と寝たことへの罰だと考える。日常の中に暴力が降りかかってくることを「事故」と見なすのであるなら、子供を急病でなくすこともまた、原発事故と同一の偶発的、突発的なできごととは言えないだろうか。

「震災と原発事故によって修人の生きる世界が変わったように、千鶴も息子の死によって世界が書き換わる経験をします。それぞれが思い描く、あるべき世界や未来や希望があって、それが“事故”によって一瞬にして崩れ去る。“事故”はネガティブなものだけとは限りません。たとえば三つ目の章の主人公のエリナは、目の前に突然台風のように現れたベルギー人の男の子と出会いますが、あれも事故に遭うようなものです。人と人との出会いもまた、衝突事故のようなものです。義兄夫婦に家を乗っ取られて自分の世界が崩壊してしまう最終章の朱里も事故に遭ったようなものです。よくわからない“何か”によって、自分が大切に思っていたものが一瞬で奪われていく瞬間をピンポイントで書きたいという思いが共通でありました」

 大切なものが一瞬で奪われるその瞬間に、人間らしさの情景がたちあらわれると金原さんは言う。そしてそこに本書タイトルの意味がこめられている、とも。