妹夫婦宅に居候、和尚と酒を酌み交わす…、「実にいきいき」幕末の名もなき武士の生活

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/20

ニューヨークのブロードウェイ。パリのシャンゼリゼ通り。今の時代は実に便利なもので、遠く離れた場所がどんな雰囲気なのか映像や写真を見れば手に取るようにわかる。だが、残念ながら、未だにタイムマシンは発明されていないので、映像も写真も残されていない時代、人々がどんな暮らしをしていたのかを想像することはかなり難しい。結局、幕末や戦国時代といった歴史上のある時代を想像するとき、私達の脳裏に浮かぶのは時代劇で見た映像だったりするのである。

今年のNHK大河ドラマは『花燃ゆ』。低視聴率云々はさておいて、舞台は幕末の長州藩。ドラマの中では後の維新の英雄たる“下級藩士”たちが楽しげな青春ドラマを繰り広げている。そんな様子をつらつら見ていると、「幕末ってこんな感じだったんだろうな」と知らず知らず刷り込まれてしまうわけだ。だが、果たして下級武士たちは、本当にドラマの中のような暮らしをしていたのだろうか。それに、そもそも『花燃ゆ』に登場するのは後に時代の表舞台で活躍する人たちばかり。むしろ、最初から最後まで名を成すことなく一生を過ごした下級武士の方がはるかに多かったはずだ。彼らの日常のは一体どんなものだったのだろうか。

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武士の絵日記 幕末の暮らしと住まいの風景』(大岡敏昭/KADOKAWA 角川学芸出版)。この本の主人公は、尾崎石城という名もなき下級武士である。暮らしていたのは、武蔵国忍藩の城下町。藩主は奥平松平家で、家系を遡ると家祖は徳川家康の長女・亀姫を母に持ち、自身も家康の養子として育てられた松平忠明。つまり、忍藩は徳川将軍家の血を引く由緒正しき親藩のひとつだった。尾崎石城は、そんな忍藩の下級藩士として、その日々の暮らしを絵日記にとどめている。ただ、下級藩士と言ってもかつては100石の中級武士だったが、上書をして藩の重役の怒りに触れて十人扶持の下級藩士に降格させられだ。その上、妻を持たずに妹夫婦の居宅に間借りしている。現代で言えば、さしずめそこそこの給料をもらっていたのにリストラされてアルバイトで食いつなぎながら親戚宅に身を寄せている…といったところだろうか。まあとにかく肩身が狭く、楽しい毎日なんてとうてい望めそうもない。

ところが。『武士の絵日記』を読むと、この石城、実に朗らかにいきいきと快活な毎日を過ごしているのだ。もちろん下級武士なので食事は質素。1日3食茶漬けということも少なくない。が、やたらとこの男は酒を飲むのだ。下級武士仲間の家に出かけては1匹のさんまをつまみに酒を飲む。近くの寺に足を運んでは和尚と一緒に“素人歌舞伎”を楽しみながら酒を飲む。石城だけでなく、和尚も酔いつぶれて2日酔いになったりする有り様だ。中級武士の家も近くにあったようで、上下関係などないかのように親しく交流してもいる。もちろん家や寺だけではなくて、友人とともに料亭に行くこともある。とてもリストラされた肩身の狭い身分とは思えない、楽しそうな毎日だ。江戸時代の下級武士は、それほど豊かではないにしろ、思っている以上にいきいきと自由闊達に暮らしていたのだろう。

また、石城の残した絵日記には、世相を反映するようなエピソードも盛り込まれている。全国を行脚する僧侶によって届けられる様々なニュース。老中安藤信正が襲われた坂下門外の変にまつわるものもあり、なんと変の10日後には安藤信正が幕府宛に認めた事の経緯を記した書状の写しを石城が手にしている。今の時代にはかなわなくとも、情報の伝達はかなり速かったようだ。他にも、和宮降嫁に伴い同僚たちが警備に駆り出され、使い慣れていない武具の扱いに大わらわしている様子や、下級武士が集まって議論をしている様子なども描かれる。社会のありようを語り合うあたりは、親藩で徳川将軍家に近い立場であった忍藩の藩士にも、幕末の動乱は影響を与えていた、おそらく、このように日夜酒を飲みながら議論をしていた下級武士が全国にいたことだろう。

と、こんな幕末の下級武士のなんとなしの日常。もちろん他にも何気ない日々にいろいろな出来事が起きている。幕末という社会の変革期。そこで暮らしている人々は、よくも悪くも楽しげで、感情豊かである。幕藩体制という江戸260年間の太平を支えた仕組みは既に限界を迎え、それに伴う社会のひずみも拡大していた。下級武士の暮らしは決して楽ではなかったはずだ。けれど、日々闊達に生きること。それを貫いたのは、まさに彼らが“武士”だったから。なんだか混沌としている今を生きる私達日本人にヒントをくれるのは、名こそ残さずとも、貧しいながらも闊達に生き抜いた幕末の下級武士なのかもしれない。

文=鼠入昌史(Office Ti+)