BLは空海が中国から持ち帰ったもの…? 男色の起源を探る

恋愛・結婚

更新日:2015/5/26

 BLが出版界において絶大な地位をしめる昨今。書店に行けば、関連するコミックや単行本が堂々と並べられる。とは言え、それらを好む女性は“腐女子”と呼ばれるくらいだから、やはり少々タブー感は否めない。

 しかし、男同士の恋愛が異端視されるようになったのは、長い歴史からすればごく最近の話。『日本男色物語 奈良時代の貴族から明治の文豪まで』(武光誠/カンゼン)によると、明治以降のことだという。江戸幕府打倒後の新政府が、西洋の列強諸国に追いつかんと、男同士の性交を罪とする「鶏姦罪」を規定したのが契機とか(私生活に介入し過ぎということで、その後撤回されたらしいが…)。西洋では、宗教的理由などから男色を悪習としていたからだ。それまでは、男色がもっと一般的なものとして人々に受け入れられていたのだ。

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 確かに、織田信長をはじめとした武将による小姓の寵愛や、中世・近世寺院における僧侶と稚児の関係は有名な話。今でこそおもしろ半分に語られるものの、当時はごく日常の光景として受け入れられていたのだろう。では、男色とはいったいいつからあるのだろうか? 江戸時代の儒者・貝原好古の『大和事古』には次のように記述される。

我朝にて男色を愛する事、空海法師渡唐以来のもの也と云伝ふ

 つまり、男色の起源は、密教を日本に伝え真言宗を始めた空海にあるという。805年に唐から帰国したときに、男色文化を日本に持ち込んだとか。本書によると、こうした考え方は江戸時代初期の著書にも見られ、少なくとも安土桃山時代にはすでにこの説が広まっていたらしい。

 だが著者は、これに異を唱える。男同士が愛し合うという感情は自然発生的に起こるものであって、誰かがどこかから持ち込んで成立するという類のものではないと主張する。確かに、憧れのファッションや食文化などは取り入れても、恋愛感情の持ち方までそう簡単に真似できないはず。

 実際、空海が唐から帰国する以前、奈良時代の仏教寺院の経典に、「淫戒」という僧侶の男色を戒める戒律があったことがわかっている。

時に比丘(びく)あり、男根起(た)つ、異比丘即ち持ちて自ら口内に内(いれ)る。此の比丘以て楽みと成さず、即ち却(しりぞ)けて受けず。疑を生ず、我れ将(は)た波羅夷(はらい)を犯すなからんや。仏言はく、汝は犯さず彼の比丘は犯す

 比丘とは男の僧侶のこと、波羅夷は僧侶が行ってはならない罪のこと。なかなか生々しいが…、ある僧侶が別の僧侶に口淫されたが、その快楽を喜ぶことなく拒んだので、仏は口淫した僧侶のみを罪とし、された方は無罪としたという内容。わざわざ経典にこんな記載があるあたり、当時からこんな僧侶同士の性交渉が日常的に行われていたことがわかる。なお、経典でいくら戒めても、残念ながらその教えが守られることなかったようだ。むしろ男色の相手となる稚児を神格化し、性行為を正当な行為とする抜け道を作ったというのだから、したたかなものだ。

 男色に関する資料はさらに遡ることができる。720年に成立した『日本書記』には「阿豆那比の罪」という話があり、今のところこれが最古の男色がらみの記事といわれているらしい。

小竹祝と天野祝、共に善友たり。小竹祝逢々病して死りぬ。天野祝血泣いて曰く、吾生けるときに、善友なりき。何ぞ死して穴を同じくすることなからむや、則ち屍の側に伏して自ら死りぬ。仍りて合わせ葬む

 「小竹祝」と「天野祝」は名前、「祝」は神主という意味で、2人の神主の話。2人は仲が良く、小竹祝が亡くなったとき、天野祝はその死体の側で横になって自殺し、一緒に合葬されたというもの。同書によると、「善友」という言葉に問題があるとのこと。「うるわしき友」と読むが、それはただの関係ではなく男色の仲だったのではないかと考えられるという。なお、「阿豆那比」は文脈からすると、神様を怒らせる穢れと考えられ、2人を合葬したことに問題があったと読めるそう。つまり、これも男色自体を非難したものではないのだ。

 男色の歴史は振り返ると取り留めがなく、神代にまで遡りかねない。男色が特別なことではなく自然発生的な感情と考えれば、それをありえないものとタブー視する文化の方がもしかすると異端なのかも?

文=林らいみ