[カープ小説]鯉心(こいごころ)【第十五話】カープも私も、仕切り直しだ

スポーツ

更新日:2015/6/29

カープ小説

◆◆【第十五話】カープも私も、仕切り直しだ◆◆
 

【あらすじ】
文芸誌『ミケ』のウェブサイトで、カープ女子を題材にした小説を連載することになったフリー編集者の美里。熱狂的カープファンのちさとに出会い、これまでの人生で縁のなかったプロ野球の世界に入り込んで行く。2015年カープと共に戦うアラサー女子たちの未来は果たして…?

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「もうすぐあなたも30になるんだから、将来のことも考えないと」

台所にいる母親が手際良く食器を洗いながら、ダイニングにいる美里に向かって言った。

「今は色んな生き方があるのはわかるけど、何だかんだ世の中ってあんまり変わってないのよ」
「そうかな?」
「そうよ。結局、正社員として働く方が有利だし、結婚していた方が安心だし、そういう風にできてるんだから」
「でも私、別に有利とか不利とかで生きてるわけじゃないし」
「またそうやって屁理屈言って」
「屁理屈じゃないよ。だってそうだもん」

この日の午後、夏子に小説のダメ出しをされて落ち込み、久しぶりに実家に帰ってきた美里。何となく母親に話を聞いてもらいたいと思っていたのだが、待っていたのはさらなるダメ出しだった。

「ねえ、お父さんもそう思わない?」
母が、リビングのソファで黙ってテレビを見ていた父に同意を求める。

「まあ、一概にこうだ、っていうのは言えないんじゃないの」
「出た。またそうやって、毒にも薬にもならないこと言うんだから」

うわー、勘弁して。
そのフレーズ、今日2回目なんですけど。。
美里は夏子に言われたことを思い出し、気分が一層落ち込んだ。

「私だって今のままでいいとは思ってないし、私なりに考えてるから」
「それはわかってる。でも心配なのよ」

全然わかってないじゃん。

「好きなことやるのはいいと思うし、応援してるわ。でも、それだけじゃ生きてけないんだから」

そんなこと、わかってるし。
美里はむしゃくしゃしながら、母が昨日買ってきたというチーズケーキを頬張った。

母が私のことを応援してくれている、というのは嘘じゃない。はじめて私の署名記事が載った雑誌は、私の手元に届くより先に母が買った。私にとってはじめてのバイネームでの仕事を、母は私以上に喜んでくれた。

それから2年ほど経って、状況は変わってきた。

母は、私が30歳手前にもなって結婚する気配もなく、フリー編集者として将来の見えない仕事を続けていることをよく思っていない。「今は色んな生き方がある」と、一見理解がある風なことを言う。でも本当は、私には早く結婚して欲しいと思っているし、そうでなくとも正社員として将来が約束された仕事をして欲しいと思っている。私が「今の時代にそんな安定した仕事なんてないよ」と言っても、母は「あなたはわかってない」と言う。

そうだよ、私はわかってないよ。
だって私は、結婚も、将来が約束された仕事も、したことがないんだから。

「その花、綺麗でしょ?」
ダイニングテーブルの中央に置かれていた赤い花を眺めていた美里に、母が得意気に言った。

「うん、珍しいね。どうしたの?」
「祐樹がプレゼントしてくれたのよ。先週、私の誕生日にわざわざうちに来てくれて」

あー、聞くんじゃなかった。

祐樹は美里の3つ下の弟だ。中高一貫の進学校に通っていた美里に対し、祐樹は昔からヤンチャで両親とも喧嘩ばかりしていたが、今ではすっかり立派な青年になった。大学で社会科の教員免許を取り、今は中学校に務めている。大学時代からもう4年ほど付き合ってる彼女がいて、そのうち結婚するのだろう。弟は私と違って、根が真っ直ぐなのだ。

優等生として育ってきた姉と、家でも学校でも問題ばかり起こしていた弟。
いつの間にか、立場が逆転してしまった。
両親の心配事は目下、私だ。

「祐樹もね、仕事大変みたい。上からは色々言われるし、給料も全然上がらないって嘆いてた。でも頑張って貯金してるんだって」

もう何を言われても、私への嫌味にしか聞こえない。
今日はさっさと寝よう。

「お母さん。私、シャワー浴びて寝るね」
「今からリンゴ剥くわよ?」
「いらない。明日の朝にでも食べる」
「そう。洗面所掃除したばっかりだから、散らかさないでね」
「はーい」

美里は食器を台所に下げ、自分の部屋に戻った。

今日は小雨が降っていたが蒸し暑く、体が汗でベタつくのを感じる。東京の夏は年々、暑さが増しているような気がしてならない。美里はベッドの上に寝転んで、部屋の中を見渡した。

小学生の頃から10年以上も住んでいたこの部屋。壁際の本棚には、これまで読んできた本が所狭しと並んでいる。その大半は、文庫サイズの小説だ。タイトルをひとつひとつ眺めていくと、自分の趣向や興味がどう変化してきたかが何となくわかる。

「毒にも薬にもならない言葉は、誰の心にも残らないのよ」
美里は、夏子の言葉を思い出した。

私は一体、誰の心に何を残したいのだろう。

窓の外からシトシトと雨の音が響き、窓ガラスの上から下へと水がつたう。美里は仰向けになって、部屋の天井を見つめた。

私が昔から小説を好きなのは、そこに物語があるからだ。

恋愛小説でもミステリーでも、小説には物語がある。歴史小説やSFだってそうだ。ワンシーンの描写ではなく、ページを繰るごとに物語が進んでいく。小説には言葉しかないから、想像が掻き立てられる。「次はどうなるんだろう」と先の展開に思いを馳せる作業が、私は何より好きだ。いつか私も、そんな小説を書いてみたい。そんな風に思っていた。

そして今、私は物語を紡いでいる。
主人公のモデルは、私自身だ。

正直、自分を主人公に小説を書くことには抵抗があった。夏子に「その方が書きやすいでしょ」と言われるがままにしたが、物語の主人公として、私はこれっぽっちも魅力的じゃないと思う。取り立てた特技も才能もないし、突き抜けた趣味もない。ちさとや春紀の方がよっぽど魅力的だ。二人には確固たる自分の世界があるし、行動力も冒険心もある。それに比べたら私は、率直に言ってつまらない人間だ。誰もがパッと振り向くような、そういう魅力が私には何もない。いい歳して母親に怒られ、逆ギレするようなダメ女だ。

でも、物語のいいところは、何もない主人公が成長していく姿を描けることだ。

私は今、たしかに何もない主人公かもしれない。でも、それは成長する余白があるということでもあるはずだ。きっと私自身が、もっと成長しなくてはいけないんだろう。

思い返せば私は、これまで色んなものから逃げてきた。
でも、いつまでも自分の殻にこもっていてはいられない。

私が好きな堂林くんだって、昔は下手くそでエラーと三振ばかりしていたという。この前ネットで調べたら、三振が多すぎるあまり堂林くんが三振した姿ばかりを集めた写真展がマツダスタジアムで開かれたこともあると知った。でも、ずっと試合に出て何度も失敗を繰り返しながら成長したんだ。そういう物語があるからファンに愛されてるのだと、ちさとは言っていた。

私も、もっと試合に出よう。
三振するかもしれないけど、バットを振ろう。

美里はベッドに寝転がったままiPhoneを手に取り、カープの公式サイトを開いた。今週末は横浜スタジアムで、目下10連敗中のベイスターズとの3連戦が行われる。金曜日はナイター、土日はデイゲーム。家から関内まで、電車で1時間ちょっとくらいだろうか。交流戦を勝率5割で終えたカープは、まだリーグ最下位ではあるものの、首位ジャイアンツまで4.5ゲーム差。長いシーズンは、まだまだこれから。

カープも私も、仕切り直しだ。

(第十六話につづく)

イラスト=モーセル

[カープ小説]鯉心 公式フェイスブック
【第一話】「ちさとちゃん、何でカープ好きなの?」
【第二話】「か、カープ女子…?」
【第三話】「いざ、広島へ出陣!」
【第四話】「生まれてはじめてプロ野球の試合をちゃんと見た記念日」
【第五話】「カープファンは負け試合の多い人生ですから…」
【第六話】「私も小説書きたかったんだよねえ。若いころ」
【第七話】「私たちカープファンにできること」
【第八話】「好きとか嫌いとか、にじみ出るものだから」
【第九話】「神宮球場で飲むビールは世界一美味しいのかもしれない」
【第十話】「女が生きにくい世の中で、女として生きてるだけ」
【第十一話】「ターン・ザ・クロック・バック」
【第十二話】「カープと遠距離恋愛してるみたいな感じ」
【第十三話】「カープ女子と広島焼きは、似た者同士です」
【第十四話】「毒にも薬にもならない言葉は、誰の心にも残らない」