“ヘンテコリン”なこと続きでした 『音楽という<真実>』新垣隆さんインタビュー【前編】

音楽

更新日:2015/10/8

 2014年2月5日、報道陣からカメラのフラッシュが一斉に焚かれる中、静かに一礼して席に座り、「私は佐村河内さんの共犯者です」と謝罪した音楽家の新垣隆さん。あの「ゴーストライター騒動」から一年以上経った現在、新垣さんは作曲や演奏活動だけではなく、テレビやラジオなどでも活躍しているが、騒動についての詳細はこれまで明らかにしてこなかった。18年にも及んだ「ゴーストライター生活」…その全貌が、ついに『音楽という<真実>』(新垣隆/小学館)としてまとめられた。「新垣隆」という作曲家がどのように生まれ、なぜ騒動に巻き込まれてしまったのか、そして今何を考えているのか――そのすべてが書かれた本について直撃した。

新垣隆●作曲家、ピアニスト。1970年東京都生まれ。桐朋学園大学音楽学部在学中から現代音楽やCM曲などの作曲家として、またピアニストとして活躍。2014年2月、当時人気作曲家であった佐村河内守氏のゴーストライターだったことを公表、一躍注目を浴びる。その後は音楽作品として『N/Y』(吉田隆一氏とのデュオ)、『ロンド』(礒絵里子氏とのデュオ)などをリリース、テレビやラジオなどにも出演している。

「自分はユニークな人間」と自称する“彼”との出会い

新垣「昨年の記者会見の段階では、わたくしはもう公に活動するのは不可能だと思っていたのですが、音楽仲間など多くの人に助けられて、音楽活動に戻ることができたんです。そして会見以降、なぜあのようなことが起こったのかということを、自分なりにゆっくり考えたいという気持ちをずっと持っていて、会見から1年ほど経った頃、改めて関心のある方に、もう少し詳しいいきさつをお話ししたいと思うようになりました。どのような状況で、自分がどういうことを考えていたのかを色々と整理をしていくなかで、改めて自己を認識するといったようなこともありました。起きたことを客観的、とは言わないまでも、なるべくそのまま、淡々とお伝えしたいという気持ちでしたが、読み返してみると、同じ話を繰り返したりなど、自分の思いが強く出ているところもありましたね」

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 佐村河内氏と出会ったのは1996年。新垣さんは当時25歳、桐朋学園大学の非常勤講師になって2年目で、桐朋の後輩から「映画音楽を担当している人が協力して欲しいと言っている」という相談がきっかけだったという。初めて会った際、佐村河内氏は「自分はユニークな人間である」と自称、「ものを食べない」「チベットで修行してきた」「将来自分がメジャーになったら孤児院を作りたい」などと言っていたそうだ。

新垣「ある種の彼の性格とかキャラクターっていうのは、そのときから今まで変わってないですね」

 取材で新垣さんは「佐村河内守」という名前を一切口にせず、ただ「彼」と言っていたのが印象的だった。

新垣「そのときは単発の、ちょっとしたお手伝いというような気持ちだったんです。でもちょっとうっかりしていて、それが積み重なっていった、という。自分も迂闊でしたけど、“まさか”という気持ちもあったんです。色々ありましたけど、今から考えれば、最初からこうなることが決まってたようなところがあって、やはり最初が大事、という…まあわたくしが甘かった、ということですね。本当は断らなきゃいけなかったタイミングがあるんですよね、何回か。そこをいい加減にしちゃった。ただ彼はああいうキャラクターですから、自分が世に出るということに対してもうとにかく積極的なんですよ。その勢いに自分が押されちゃった、ということですね。単純に言ったら“ズルズル行った”ということなんですけど」

彼は普通の人間

 来た仕事を「断らない」と話題になっている新垣さん。「いい人なんですね」と言うと「わたくし自身は、原稿を読み直してすごく悪い人間だと思いました」と表情を曇らせた。「単に気が弱くて、やりますやります、って。音楽の仕事として受けた方が自分にとっては楽なんです。だから突っぱねたりすることができず、悪い言葉で言うと“逃げていた”んですね」

 あの手この手で新垣さんを取り込んでいく佐村河内氏は、音楽に明るくないことの言い訳のため「自分は耳が遠い」という設定をする。それがなぜ「聞こえない」ことに変わったのかなど、一連のゴーストライター騒動の詳細については本書でぜひ確認して欲しい。

新垣「普通は“自分は耳が聞こえないことにするから”と言われたら、呆れますよね。はぁ、と。そういうことを編み出しちゃうんですよ、彼は。わたくしは、それとは一線を引かないとダメだと思ってずっと来ちゃったわけです。でも彼は普通の人間だと思っています。ただ自分がビッグになって、新垣のことを引っ張り上げるみたいな話は、ある意味信じられるところはあったんですよ。彼はそういう熱い面を持っているんです。それはまあ、ありがとうございます、でもそんなことはいいんですけど、と思っていたんですけども。それから彼は“人々に聞かれる音楽を作るべきだ”という話をしていました。その一点において、彼は正しいことを言いましたね。それは厳しい意見であり、音楽家や作曲家が考えなければいけない、努力をしないといけないことなんです」

新垣さんにとっての作曲は、松村邦洋のモノマネ?

 当初手がけていた商業的なゲーム音楽から、芸術家として音楽を創造する方向へ行き始めた佐村河内氏に違和感を抱いた新垣さん。後に『交響曲第一番 HIROSHIMA』と命名されることとなる『現代典礼』の作曲を依頼された際、それを60分以上の壮大な曲とすることで、「クラシック界では無名の佐村河内氏の曲=売れない」とレコード会社が判断して、リリースを諦めるだろうと考え、「演奏されないためのCD1枚分の交響曲を書く」という、まったく鍵盤に触らずに演奏されるジョン・ケージの『4分33秒』という曲のような、ある意味でのコンセプチュアル・アートのような曲をわざわざ1年もかけて書くことで、この関係性が頓挫するということに賭けたという。

新垣「そんなことを言うと、ケージには申し訳ないんですが…そもそも“演奏されない、誰にも聞かれない交響曲を作る”ということ自体が非常におかしな行為なわけですけど、彼に対して断る、というのは難しかったんです。だったら、断るよりも曲を作る方がわたくしは楽なんですね。最初はその企画が流れて、よかった、助かった、ということもあったんですけど、最終的にはCDが18万枚も売れて、異常なことになってしまって。そういうヘンテコリンなことがそもそもの始まりであったのに、それがうっかり演奏されてしまったという、色んなヘンテコリンなこと続きだったんです。そういえば松村邦洋さんがモノマネをするようになったのは、暴走族のお兄さんたちに声を掛けられて、それに対処するためだったというエピソードを聞いたんですけど、もしかしたらそれに近い感じなのかなと。怖い人に絡まれてなんとかしないといけない、というので松村さんがビートたけしをやり始めたというのが、わたくしにしてみたらそれは作曲することに近いのかな、と(笑)」

「彼とは18年間付き合っていたとはいえないんじゃないかな、と思います。ちょっと冷たい話ですけど」と佐村河内氏とは決して深い関係にならなかったという新垣さん。さらにある誘いに対して、「断れない」新垣さんも断固拒否したことがあったそうだ。

新垣「彼は関係性を作りたがってたらしいんです。“佐村河内プロジェクト”とか称して、映画のスタッフとかを呼び入れたりして、仲間を作ろうとしていたみたいなんです。わたくしも彼から“お前も入らないか?”と言われたんですが、それは断ったんですよ!」

音楽という<真実>』新垣隆さんインタビュー【後編】へつづく

取材・文=成田全(ナリタタモツ)