天才ピアニストの兄と比較され続けてきた弟が見た絶望と希望 ―兄弟間に渦巻く嫉妬心を描いた『89番目のおんがく』

マンガ

更新日:2015/9/8

 一人っ子のぼくにはわからないのだが、兄弟・姉妹の関係というものは非常に複雑らしい。特に、優秀な兄・姉を持つ人に話を聞いてみると、精神的に参ってしまう場面が多々あるとか。それは、常に「比較される」から。「お兄ちゃんは立派なのにね…」「お姉ちゃんみたいになりなさい」。周囲のそういった雑音が、子ども心をボロボロにしてしまうのだ。

 『89番目のおんがく』(篠田芽衣子/徳間書店)の主人公・上城裕也も、幼い頃から、天才ピアニストの兄・和成と不出来な自分とを比べられ、苦しい思いをしてきた。コンクールでいつも優勝を飾る兄、音楽界の巨匠からパリへ招かれる兄、大勢のファンからチヤホヤされる兄。そして、いつも比べられ、惨めな思いをしてきた自分…。

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 そんな裕也は、兄の死をきっかけに、彼の模倣をするようになる。兄の追悼コンサートと称して、彼の奏でる音を模したコンサートを開催するのだ。もちろん、兄のファンたちは皆大喜び。「お兄さんのピアノにそっくり」「和くんの音がまたきけるなんて」「弟がいると便利だよね」と、あまりにも残酷な賛辞を、裕也に投げかける。

 けれど、裕也にはこうするしかない。自分自身を認めてもらうためには、死んでしまった兄の代わりを務めるしかないのだ。ただただ心を殺し、周囲から求められるがままに、兄の音を再現するだけ。その行為が、自らを少しずつ傷つけようとも。

 誰も自分自身を見てくれない。こんな残酷なことがあるだろうか。この世を去ってしまった兄の姿を重ねられ、兄の代役になることを強要される。周囲が評価してくれるのは、決して裕也のピアノではない。彼が弾く「兄のピアノ」だ。それでも、兄の音を再現しようとする裕也の心境を思うと、胸が痛くてたまらない…。

 けれど、そんな裕也に、手を差し伸べる少年が現れる。彼の名は、玉森深月。底抜けの明るさをもって、裕也に「一緒に校内コンクールに出よう!」と声をかけるのだ。

 そんな深月を、裕也は拒否する。良い人を装っているけれど、お前も他の奴らと一緒だろ。俺の苦しみも、ずっとこびりついたまんまの憎しみも、お前なんかにはわからない。偽善者め。お前だって兄貴のピアノが好きなんだろ。だから俺に近づいたんだろ――。

 もはや裕也は疑心暗鬼状態。周囲の人間など、誰一人として信用できない。けれど、そんな裕也の心を開いたのは、深月のこんな言葉だ。「ぼくは、君と会ってから、君の話しかしていないよ」。そう、深月は最初から、裕也のことを裕也として見ていたのだ。

 自分のことを自分として見てくれる。そんな単純なことが、絶望の淵にいた裕也にとって、どれほどの救いになっただろうか。誰かの代用品ではなく、ただ自分を求めてもらえることの喜び。他者と比較され嫌な思いをしたことがある人ならば、きっとそれを理解することができるはずだ。

 結果、裕也は深月と一緒に、校内コンクールの舞台に立つことを決意する。兄の音を再現するためではなく、自分を認めてくれた友人とともに、「自分自身の音」を奏でるために――。

 はたして、裕也は「本当の自分」を取り戻せるのか。一番近い存在と比べられ、劣等感に苛まれ続けてきた彼が、無事、光を見出だせることを祈りながら、本作の続刊を待ちたい。

文=前田レゴ