デビューからわずか1年 ミステリー界に新たな巨匠候補が誕生!!

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/17


『生還者』(下村敦史/講談社)

 下村敦史氏は2014年に江戸川乱歩賞を受賞し、作家デビューを果たした。しかも、受賞作品である『闇に香る嘘』(下村敦史/講談社)はミステリー作家の登竜門と呼ばれている同賞の中でも近年まれにみる傑作という高い評価を得たのである。とは言え、彼の作家への道は順風満帆だったというわけではない。過去に4度、最終選考に残りながらも受賞を逃しているのだ。審査員の選評はいずれも「綿密な取材とそれに基づいた描写力は見事だが、物語の展開が拙い」というものだった。受賞作の卓越した構成力を目のあたりにすると信じられないコメントだが、それだけ著者の成長が著しかったということであろう。そして、著者の成長ぶりはデビュー3作目の『生還者』(下村敦史/講談社)でも十二分に味わうことができる。

 本作の大きな魅力のひとつは大自然に立ち向かう登山家たちの姿だ。冒頭、猛吹雪の中での登山シーンからすでに緊迫感は最高潮に達し、読者の心を物語の中に引きずり込むパワーに満ちている。著者自身が格別登山に詳しいわけではない。過去作をみても山岳を舞台にした作品はこれまでなく、一作ごとに舞台や題材を変えていくのがこの著者の特徴だ。それでいてこれだけ迫真のシーンを描けるのであるから、さすがに、アマチュア時代から取材力と描写力に定評があっただけのことはあると感嘆を覚えずにはいられない。

 物語はエヴェレストより登頂が困難といわれる標高世界第3位の山、カンチェンジュンガに挑み、雪崩によって命を失ったある登山家の葬儀のシーンから始まる。それは、4年前に登山から足を洗ったはずの男の無謀な挑戦の結果だった。やがて、彼の弟である主人公が受け取った遺品の中に刃物による切れ込みの入ったザイルがみつかり、兄の死は事故ではなく、殺人ではないかという疑惑が浮上する。一方、雪崩に巻き込まれながらも奇跡的に生還を果たした男は主人公の兄と同じパーティーだった加賀谷という男に命を助けられたと証言した。しかし、その後、発見された新たな生存者は、加賀谷こそみんなを死に追いやった卑怯者だと糾弾する。嘘をついているのはどちらなのか。そして、多くの命が失われた山で一体、何が起きたのか。

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 事件の証言が食い違うというと芥川龍之介の『藪の中』(芥川龍之介/講談社・他)を想起させるが、本作の場合はどちらが嘘をついていると仮定しても不可解な点が多く、その謎の提示の仕方がサスペンス性を高めている。このミステリー要素が物語前半の牽引力となるのだが、それと並行して描かれる人間ドラマもまた一級品だ。登場人物ひとりひとりに存在感があり、だからこそ、彼らが過去に経験した出来事とそれに対する想いが真摯に読者の胸に染み入ってくる。単に謎の解明だけに終始するのではなく、真相をひもといていくうちに人間の持つ哀しみや業が明らかになり、ミステリーと人間ドラマが混然一体となって物語が進んでいく。それが本作の妙味だろう。そして終盤、舞台は再び、カンチェンジュンガへと戻り、壮大な大自然と人が対峙する姿が描かれる。そこで謎は解明されて大団円を迎えるが、単なる予定調和では終わらせず、隠し味に苦みのあるサプライズを用意しているところも心憎い。

 迫力のある山岳描写、強烈な謎、巧みな伏線とその回収、登場人物の魅力、深みのある人間ドラマと本作品は多くの魅力的な要素にあふれている。しかも、特筆すべき点はそれらの要素が決して空中分解することなく、有機的に結合して作品の完成度を高めている点だ。プロットの巧妙さではすでにミステリー界屈指といえるほどで、デビューから1年でこの域に達するとはその成長ぶりには驚くほかない。いずれ、ミステリー界において巨匠と呼ばれる存在となるのではないか。そういった期待も含めて今後の活躍から目が離せない作家である。

文=HM