セックスを経て屈折する人生のベクトル―性を描いてきた作家が、生を重厚に描くということ〈草凪 優インタビュー〉

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/17


『黒闇』(草凪 優/実業之日本社)

 セックスにおけるオーガズムは「昇天」と形容されることがある。天高く舞い昇ってしまうほどの快感。しかし草凪優氏の『黒闇』(草凪 優/実業之日本社)で描かれるオーガズムは、死を思わせる。命を燃やしながら底なしの沼に沈んでいき、自身が彼岸にいるのか此岸にいるのかもわからなくなるほどの快感。そのなかで登場人物たちは、「生」を実感する。

 官能小説家として多くのファンに支持される草凪氏にとって、『黒闇』は初の単行本となる。主人公・迫田はミュージシャンになる夢敗れた中年男。事業に成功した妻に生活の一切を見てもらい、自身はただ酒を飲んで自堕落に毎日をやり過ごす。そんななか、妻から離婚の意志を告げられる。自分と別れ、別の男性と結婚したいと打ち明けられる。しかもその相手というのが、抜群の人気を誇るトップミュージシャン。音楽で成功できなかった自分、何者にもなれなかった自分を突きつけられる……。

 ぎりぎりのなかで生きる人たちの心情、金、暴力、生への渇望などさまざまな要素が幾重にも重ねられつつも、やはり性の描写に圧倒される。同作には、何組ものセックスが描かれる。まずは、迫田の妻とミュージシャン。迫田はそのミュージシャンから生き別れた娘を捜し出してほしいと依頼される。20歳になっていたその娘・杏奈は場末の性風俗店で働き、稼いだ金はその母親・美奈子に巻き上げられていた。2組目は、その美奈子と迫田。ミュージシャンに苦境を一切知らせず、貧困のなかであえぎ、性風俗店で身体を売りながらひとり娘を育ててきた彼女の生き様に迫田は共振し、身体を重ねる。

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 男と女が初めて身体を重ねるときは、人生のターニングポイントともなりうる。しかし、それは幸せへの一歩とはかぎらない。草凪氏はこう語る。

草凪優さん(以下、草)「迫田も杏奈も美奈子も、それまで幸せとは遠い人生を歩んできましたが、だからこそ生きている実感がほしいんです。『みずから獲得していく』というのが、本作のひとつのテーマでもありますが、すべてに投げやりだった迫田も、流されるままに生きてきた杏奈も、それぞれに出会ったのを機に初めて自分の意志で足掻こうとします。でも、そうすればするほど、彼らの場合は人生の不幸な面へと横滑りしていく……。基本的に、ダメな人たちなんですよね。でも、ダメななかにも真面目な要素を持っている。彼らにかぎらず、人間ってそういうものですよね。ダメ一色で塗りつぶされた人というのはまずいないからこそ、愛おしい存在です」

 その真面目な面を最大限振り絞って、迫田は美奈子と結婚し、杏奈の父となるべく努力する。酒浸りでなまっていた身体を奮い立たせてシロアリ駆除の仕事をはじめる。家族がいるという実感、家族を養っているという自負によって、三人の家庭生活はぎこちないながらも回っていく。

「でも、いいことは長くは続かないんですよね。本作を読んだ方々から『彼らの幸せな家庭生活をもっと長く読みたかった』という声もいただきますが、人生において幸せな時間は短い、というのは僕の人生観でもあります。彼ら三人ともがそれぞれに『一人前になりたい、成長したい』と思って新生活に臨むのだけど、もともと不器用だったり、ままならないことが起こったりしてうまくはいかないんですよ」

 ままならないこと……それは、迫田が〈セックスの天才〉こと杏奈と関係を持ってしまうこと。戸籍上は父と娘。迫田は再婚して間もない妻を裏切り、杏奈は母を傷つける。

「その後、杏奈には急死した父親の莫大な財産を相続する話が舞い込みますが、お金とセックス、どちらも理性を失わせますよね。そこは男も女も変わりありません。いきなり目の前に大金をつまれたら、そりゃクラッとします。セックスだって、迫田も杏奈と寝てはいけない、せっかくの幸せが壊れてしまうとわかっていながら、自制が利かなくなり狂ってしまう。セックスにもお金にもそんなネガティブな面があるというのを描きたかったです」

 迫田と杏奈は、何重ものタブーを破って快楽を貪り合う。そしてふたりに裏切られたと知った美奈子もまた、セックスで受けた傷はセックスで返すとばかりに苛烈な復讐に手を染める。セックスとはこんなに残酷で、人の人生を変えてしまうものなのだと思い知らされる。

「一般的なドラマでは、セックスシーンってうやむやにされがちです。そしてその後には『ふたりの愛は深まった』という描写がなされます。ふたりの関係性のベクトルはセックスという通過点を経ても、愛情や幸福といったポジティブなものに向けてまっすぐ伸びていく。でも実際には、セックスしたのを機に愛情が冷めることもあれば違和感が植え付けられることもあるはずですよね。セックスという点を経て、ベクトルが屈折するんです。もちろん、遊びのつもりだったのに寝てみたら肌があったので真剣交際を考える、という具合に曲がることもありますが。ふつうのドラマでは飛ばされるところにこそ人生の重要な転換がある……それが私が長いこと書いてきた官能小説というものだと思っています」

 関係を重ねるほどに、そして快感に流されるほどに、迫田は死に近づいていくかに見える。

「死に様はすなわち、生き様です。あるいは、死ぬことによって生きているといってもいいかもしれません。美奈子や杏奈と出会う前の迫田は、大金を手に入れたらアジアの熱い太陽の下で酒と色に溺れて退廃のなかで死んでいくという暗い欲望を抱えていました。この願望は私のなかにも少なからずあるものです。でも、美奈子や杏奈たちと出会い、生き方や生きる意味が迫田のなかで変わるにつれて、その死に様も変わっていきます」

 杏奈のものになるかもしれない莫大な遺産。これが引き金となって欲とバイオレンスの世界に巻き込まれる三人。過酷な運命の渦に飲み込まれていく様を前にすると、彼らはもうちょっと幸せになってもよかったのではないかと思わずにはいられない。

「迫田の不器用な生き方に焦れったい思いをしながら読んでいただいた方も多いようです。一方で、同じく不器用に生きてきた美奈子には意外なほど共感する声が聞かれました。でも、迫田と美奈子はあわせ鏡のような関係にあります。身体を売って娘を育てきた美奈子は、それでもプライドがとても高い。もっと器用に振る舞えるんじゃないかという場面でこそ、そのプライドが邪魔をして幸せから一歩遠ざかってしまいます。迫田も、自分のプライドから自由になれなかった男……結局は似た者同士なんです。杏奈は杏奈で、社会性に欠け、コミュニケーションに問題があってセックスを通してしか人と接することができない。だからスキルを磨くことで〈セックスの天才〉となったと考えると、哀しいことです」

 上手に生きてこられなかった三者が三様に、身を滅ぼしかねないぎりぎりのところで生を実感し、初めて人生と直面する。〈黒い闇〉のなかでこそ輝きを手に入れた彼らが、まぶしく見えた。

取材・文=三浦ゆえ