惨劇から100年―史上最悪の獣害事件「三毛別ヒグマ事件」を名著から追う

社会

更新日:2018/1/17


『慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件』(木村盛武/文藝春秋)

 プーさんのおかげか。それとも、童謡「森のクマさん」が耳にこびりついているからか。クマというと昔から、愛らしくかわいらしいイメージがつきまとう。しかし、今からちょうど100年前に発生した史上最悪の獣害事件とされる「三毛別ヒグマ事件」を追うと、そのイメージもガラリと変わる。

 事件を紹介した中でも、名著といわれる『慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件』(木村盛武/文藝春秋)が、今年4月に文庫化された。同書には、林務官として事件を取材した著者による生々しい記録が刻まれている。

 尚、本稿には凄惨な描写が含まれるため、苦手な方は、ご注意いただきたい。

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惨劇の始まり。ひと目で食い荒らされたと分かる無残な遺体

 惨劇は1915年12月9日に幕を開けた。現在の北海道苫前村にあった集落では、15軒の開拓農家が軒を連ねていた。そのうちの1軒。初めにヒグマが狙いを定めたのは太田家だった。年中行事に駆り出されていた家主・三郎のいぬ間に、内妻・マユと預かり子・幹雄が犠牲になった。

 太田家の寄宿人・オドが昼過ぎに帰宅すると、囲炉裏の前には幹雄がいた。「おい幹雄、帰ったぞ」。オドが声をかけるも返事はない。しかし、近づいてすぐに分かったのは、顔の下に血溜まりを作り、のどの一部がえぐられていた幹雄がこと切れているということだった。

 その後、他の村人たちも合流。マユがヒグマに連れ去られたのが分かり、近隣の住民たちも協力した捜索隊が組まれた。捜索が開始されたのは翌日の10日9時頃。小雪のちらつく山道を進む捜索隊の眼前、トドマツの根元にあった黒いかたまりが突如として巨大なヒグマへと変貌した。

 あわてふためく捜索隊。なかには声を上げて逃げ出す者もいた中、5名いた銃手たちが次々に発砲を試みた。しかし、日頃からの整備不良によりことごとく不発。唯一、火を放った1丁の猟銃すらも命中せず、捜索隊は千載一遇の機会を逸してしまった。

 ただ、トドマツの根元からはマユの遺体が発見された。とはいえ、すでに原形はとどめていない。辺りの木々に衣服は散らばり、足袋や脚絆を付けた膝から下の両足、そして、頭髪をはがされた頭蓋骨のみが残されており、誰が見ても、無残に食い荒らされた跡というのは明白だった。

悲しみに暮れる中で繰り返されるヒグマの襲撃と増える犠牲者

 10日夜。太田家に集まった村人たちは、マユと幹雄との最後の別れを惜しんでいた。しかし、誰もが悲しみに暮れる中、ふたたびヒグマが村へと戻ってきた。1度狙った獲物を執拗に追い回す習性から、マユの遺体を取り返そうと山を下りてきたのだ。

 通夜のさなかで繰り返された事態にあわてふためく村人たち。太田家を襲撃したのち、さらなる獲物を求めたヒグマは、近隣からの討伐隊を待つため男衆の集まっていた明景家へと向かった。

 離れでは、明景家の妻・ヤヨが夜食作りにかかっていた。ガターンと大きな音を建てる屋内。「誰だ!」と叫んだヤヨの目の前に、暗闇からヒグマが現れた。突然の事態におののくヤヨ。その瞬間を見逃さなかったヒグマは、ヤヨが背中におぶっていた4男・梅吉の頭、足、腰にかみつき、続けて、ヤヨの片隅にいた次男・勇次郎と共に、3人を居間へと引きずり出した。

 その場に居合わせたオドも、出口をさえぎるヒグマに襲われ瀕死の重傷を負った。次々と家人がかみつかれ、殴り倒される中、ヒグマの狙いは野菜置き場にいた斉藤タケへと移った。

 胎児を身ごもっていたタケは、ヒグマに向かって「腹破らんでくれ!」「のど食って殺して!」と命乞いをした。しかし、言葉など通じるはずもない。タケの願いもむなしく、無慈悲にも腹を裂き胎児を引きずり出したヒグマは、生きたままのタケを上半身から食べはじめた。

 この時、唯一難を逃れたのが明景家の長男・力蔵だった。のちの証言によれば、現場には「バリバリ、コリコリ」という生々しくも不気味な音が響いていたという。

 その後、50名にもなる討伐隊が明景家に到着。「家もろとも焼き払ってしまえ!」「いっせいに家の中を撃ってしまえ!」と怒号がやまなかったが、生存者の声が聞こえたことから、無念にもヒグマを討ち取ることはできなかった。

発生から6日目。2発の銃弾により絶命した“黒い悪魔”

 メールはおろか電話すらなかった時代。村からの使者により、北海道庁に事件のしらせが届いたのは発生から3日後の12日だった。その日の夕方には、大討伐隊が到着。しかし、現場検証に立ち会った駐在所巡査と医師は、人骨と人毛、未消化の人肉が混ざったヒグマのフンを確かめつつも、ただただ震えるしかなかった。

 未曾有の事態に手をこまねく村人たちと大討伐隊。12日の20時頃にはみたびの襲撃が繰り返され、明けて13日夜、三毛別川との合流地点で対峙したヒグマを、またしても仕留め損なってしまった。

 しかし、発生から6日目を迎えた14日。村人たちから“悪魔”と称されたヒグマは、ついに最期を迎えることになる。

 大討伐隊に帯同したマタギ・山本兵吉は日露戦争からの帰還兵だった。付近では「サバサキの兄ぃ」として知られる、熊討ちの名人だった。鉄砲を質屋に入れては、酒を浴びる日々を過ごしていた兵吉。しかし、その腕前は誰もが認めるところで、のちの証言によれば「1日でも早く兵吉がいれば悲劇は起きなかった」とされるほどだった。

 その日は朝から大討伐隊が捜索へと向かった。一行から離れた場所で、歩みを進める兵吉。すると、ミズナラの大木の幹に、巨大なヒグマが寄りかかっているのを見つけた。音を立てぬよう、20メートルほどの距離まで近寄り、兵吉は強く握りしめた銃を静かに上げた。

 狙いを定めて引き金を引いた瞬間、ダーンと周囲に銃声がこだました。心臓を撃ち抜かれたヒグマは、大きくのけぞりつつも兵吉をにらみつけた。しかし、間髪入れずに放たれた2発目の銃弾が、ヒグマの頭部を貫通。辺りに雪が降り積もる時期、村人たちを恐怖のどん底に突き落とした黒い悪魔は絶命した。

 胎児を含めた8名の死者。2名の重傷者を生み出した史上最悪の惨劇は、こうして幕を閉じた。兵吉が討ち取った直後、歓喜の声も聞こえる中、隊員たちはとむらいとばかりにヒグマの死体を持っていた武器や木の棒でひたすら殴りつけたという。

 小説や映画、テレビでも語り継がれるこの事件。人里にヒグマが下りてくるニュースもたびたび聞かれるが、事件をたどってみると、けっしてほほえましくなど見ていられない。同書ではさらに、事件後の検証結果なども伝えられているが、この時期になると脳裏をよぎる印象的な事件である。

文=カネコシュウヘイ