「こやしにならぬ過去なら捨てた方がいい」世界のホンダをつくった本田宗一郎の夢語録

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公開日:2015/12/21

    (C)ぴあ

 常に独創的かつ先鋭的なクルマを世に送り続け、「世界のホンダ」の名を不動のものとしたホンダ創業者・本田宗一郎。同氏の名言を収録した『本田宗一郎 夢語録』が、2015年12月18日(金)に発売された。

 本田宗一郎は、稀代の発明家であったと同時に、傑出した経営者でもあった。そのユニークな発想と、限りない理想と情熱、そして底抜けの明るさでホンダの社員を叱咤激励して育て上げ、数多くの優秀な後継者を世に送り出していった。

 彼の死後25年目を迎える2016年。20年以上経った今でも、彼の理念や哲学、メッセージは色褪せることなく、多くの人々の心を揺さぶる。モノづくり、そして人づくりへの「愛」「夢」「情熱」で満ち溢れる、本田宗一郎の言葉には、現代の日本人が失いつつある想いが込められている。同書に収められた212本の名言で、現代を生きるためのヒントを手に入れよう。

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    写真提供:本田技研工業

<主な内容>
・第1章:夢・情熱
「いやいやながら作り出すものに、世界の水準を超えるよい製品ができるわけがない」
「進歩を運命づけられた人間の辞典には、不可能という言葉はありえない」
「人を動かすことのできる人は、他人の気持ちになることができる人である」
「自分の得意な分野でつまづく人は、結局自分に裏切られているのである」
「資金の足りない分は、知恵と労力で補えばいい」
「本当に人間の能力を信じて任せれば、決して、烏合の衆には終わらない」
「言葉や文章には嘘があっても、製品には嘘がない」
「最後は人間だ。人間が変わらなければどうにもならない」
「企業に得意、不得意があってはならぬ」
「技術よりもまず第一に大事にしなければならないのは、人間の思想」など

・第2章:挑戦・反骨
「失敗を恐れて何もしないなんて人間は、最低なのである」
「既成の概念にとらわれることほど、人の考えを誤らせ道をとざすものはない」
「細心の注意をやると大胆さがなくなり、大胆さばかりを追うと粗暴になる」
「こやしにならぬ過去なら捨てた方がいい。それを捨てれば未来が考えられる」
「本当の合理化は設備投資をすることじゃない。石頭をきりかえることなのだ」
「流行とは、実に得体の知れぬものである」
「日本人はとかく、自分に理解できないものを否定しがちだ」
「若い時代の失敗は、将来の収穫を約束する種である」
「上の人の言うことなら、何でも従うようでは困る」
「貧乏すると、人間の本当の喜びや悲しみがわかる」など

・第3章:創造・発想
「よいアイデアに国境はない。よい商品に国境はない」
「発明、創意工夫なんてものは、ぎりぎりの線までいかないと出てこない」
「アイデアは誰でもいつでも、平等に分けることができる」
「独創性は新しいモノをつくることであり、模倣性は流行を生むこと」
「私は、世間で言う『悪い子』に期待している」
「人間というものは、どこか抜けたところがないと面白くない」
「はっきりと自分のことを、さらけ出したほうがいい」
「アンケートに頼っていては、発展がない」
「未知の世界の探求というものは、私は人生最大の楽しみのひとつだと思う」
「自由になりたいがために、モノを考え働いている」など

・第4章:信頼・社会貢献
「一番大事なのは約束を守ること。世の中に奉仕すること自体が信用である」
「人間が逆境に立ったとき、最も必要なのは反省である」
「信頼とは一日一日のその人の履歴、人となりだ」
「成功する人はいつでも金よりも先に、信用を押し出している」
「会社のために働くな。自分の生活をエンジョイするために働きにこい」
「真似をして楽をしたものは、その後に苦しむことになる」
「権力を持った者がどんなに真理を否定しても、真理は真理として残る」
「自由というものは半分以上が、非合理なものである」
「『果報は練って待て』よく反省して待つことが、われわれの課題」
「会社のなかでも部下に優秀な人間があれば、おれは頼りにするよ」など

■『本田宗一郎 夢語録
著:本田宗一郎、 元永知宏
価格:1,620円(税込)
発売日:2015年12月18日(金)
仕様:四六判/256ページ/ハードカバー
発行・発売:ぴあ

本田宗一郎
自動車メーカーホンダの創業者。1906年静岡県・浜松市に生まれる。本田技術研究所を基礎とした本田技研工業株式会社を設立、取締役社長となる。軽自動二輪(ドリーム号・カブ号など)の製造から始まり、大型二輪車、四輪車を製造。本田自らが発明・設計の陣頭指揮を執り、ホンダの独創性・創造性を築き上げることで、ホンダを世界有数の自動車企業に仕上げた。1973年に社長から退くことを発表し、その潔い引き際は世間から多くの驚きと賞賛を集めた。退任後は最高顧問として文化活動に従事、1991年逝去。