偶然を偶然で終わらせない 赤瀬川原平さんの偶然&夢日記

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/16


『世の中は偶然に満ちている』(赤瀬川原平:著、赤瀬川尚子:編集/筑摩書房)

「偶然」とはなんだろう? 名だたる哲学者がその問題について考えてきたが、明確な答えはまだないように思う。道端にある美しくも無用の長物なものを愛でる『超芸術トマソン』(筑摩書房)、“◯◯力”の元祖でベストセラーとなった『老人力』(筑摩書房)、そして芥川賞を受賞した『父が消えた』(尾辻克彦名義、河出書房新社)などで知られる、2014年に亡くなった芸術家・作家の赤瀬川原平さんも「偶然」と「夢」について追求していたそうだ。

 その偶然と夢について晩年まで30年以上も手帳につけられていた「偶然日記」と「夢日記」は『世の中は偶然に満ちている』という一冊の本にまとめられている(遺品である手帳が見つかったのもある偶然がきっかけだったそうだ)。その日にあった偶然や夢の内容が事細かに書かれているのだが、偶然がさらなる偶然を引き寄せたりして、夢との符合の多さにとても驚かされた。また本書には赤瀬川さんが遭遇した偶然や夢を素材とした小説「舞踏神」「珍獣を見た人」も収録されている。

 本書を読み進めていたところ、以前取材したあるミュージシャンが「人生は“ひらめき”であり、そのひらめきが“答え”なんです」と語っていたのをふと思い出した。ひらめきを「ただの偶然」という「点」で終わらせて、忘れてしまうから答えを見失ってしまうが、忘れずにいれば偶然を必然にできる、点を「線」に変えていける、そのためには物事をやり続けていかないといけない、という話だった。それが彼の場合は音楽であり、ずっと続けていたことで、昔わからなかったことが理解できたり実感できて感動に繋がったりする、と語っていた。若いころに思いついたメロディを弾いて終わりではなく、譜面や曲として残しているからこそ、後にその音と向き合えるのだそうだ。

advertisement

 私は赤瀬川さんの本を読んだことで、この偶然についてのエピソードを思い出し、結びつけ、点を線に変えるチャンスを得た。そしてこの文章を読んでいるあなたも、同じチャンスを得ているのだと思う。

 赤瀬川さんは東京の四谷で、昇った先に入り口などがないため留まるか降りるしかないという昇降するためだけに存在する階段を発見し、「四谷の純粋階段」と名付けた。それは名前が付けられるまで誰も注目していなかったことを表している。これはやがて『超芸術トマソン』としてまとめられていくきっかけとなるのだが、トマソンについて赤瀬川さんは自著『芸術原論』(岩波書店)でこんな指摘をしている。

物件はそこにあるから、そこに行けば誰でも発見できる、しかしそこへ行く才能というものがあるのだった。物と出合う才能である。物を見る才能ということも混じるわけで、自分でも名品を見つけたあとは気分が昂揚して、目が冴えわたるのがわかり、たてつづけに名品を見つけたりする。もちろん名品の多発地帯ということが考えられなくもなく、たまたまその一帯に踏み込んだのかもしれないが、そういう因果関係を除いても、さまざまな場面で、発見の才能はあると思った。つまり偶然の力を受ける才能である。

 偶然をただの偶然で終わらせない。それこそがさらなる偶然を引き寄せる力となり、それが続くとひとつの考えや答えとなって、自分を自分たらしめている(あるいはそう思い込んでいる)ことや、世の中を支配している強大なシステムを変えるきっかけとなる。偶然の点は集まって線となり、無数の線が貼り合わされ、巨大な面となって立ち上がってくる。それらはやがて空間や時間さえも超える叡智となり、多くの人の人生を暖める存在となるのだろう。ただし物事をしっかり見据えていないと、偶然は偶然のまま流されていく。そして二度と目の前に現れることはないのだ。

 偶然の哲学的な答えは私にはわからないが、日々与えられる何かに気づくチャンスであると捉えると、毎日が少しだけ楽しくなることがわかった。この本に出会えた偶然、そして偶然を必然にできたことは、また新しい偶然を引き寄せてくれることだろう。

文=成田全(ナリタタモツ)