「これまでの戦争体験記とは一線を画している」―第14回小林秀雄賞を受賞したノンフィクション

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/15


『生きて帰ってきた男――ある日本兵の戦争と戦後(岩波新書)』(小熊英二/岩波書店)

「できる限り、大勢の人に読んでもらいたい」。読後、すぐに思ったのは、「この本を読む人が一人でも多くなってほしい」という熱い気持ちだった。

生きて帰ってきた男――ある日本兵の戦争と戦後(岩波新書)』(小熊英二/岩波書店)は、とある一人の日本兵が語った戦前、戦中、戦後の日本を詳細に書き綴ったノンフィクションだ。

日本兵の名前は小熊謙二氏。大正14年(1925年)、北海道で生まれ、東京で育つ。19歳の時に軍に入営し、シベリア抑留を得て、日本に戻ってきた後、変化していく東京で生き、現在もご存命の方だ。著者はその息子の英二氏。彼は大学教授であり、とあるきっかけから、父親に「シベリア抑留」の聞き取りをしたことから、本書が完成する。

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本書は「これまでの戦争体験記とは一線を画している」。なぜかというと、戦争体験だけではなく、戦前、戦後の暮らしも共に書かれているからである。戦前の日本がどのような様子であったのか。戦後、どのような変化が日本人に起こったのか。その一連の流れを、地位も権力もない、本人いわく「下の下」であった一般人の男性から「聞き取り」をした点に、本書の稀有なところがある。

さらに特筆すべきは、謙二氏の驚くまでの客観性だ。戦争、さらにシベリアでの収容所生活といった悲劇的な出来事にも、謙二氏はあくまで「淡々と」語る。

悲惨な経験や、はた目には劇的な経過を語るときも、ロマンティシズムで色付けするようなことが一切ない。一貫して冷静かつ客観的に、ときにはユーモアをまじえて事実を語っていた。

と、あとがきにもあるように、本書を読んでいると、あまり「起伏」がない。

もしこれが小説やドラマなら、「もうちょっと劇的な演出をしてよ」と不満になるだろう。それほど、あくまで客観的に、淡々と、一生が綴られている。それでいて、内容は「現実は小説よりも奇なり」という言葉が頭を過るほどの「劇的な」一生なのだ。このアンバランスにも思える「客観性」が本書の魅力であり、さらに、所々出て来る謙二氏の深く考えさせられる発言が「できる限り大勢の人に読んでもらいたい」と思った要因である。

本書は基本的に、息子の英二氏が状況説明と数字的データなどを交えて、謙二氏の一生を書いているのだが、時折、謙二氏の言葉がそのまま記されている箇所がある。

例えば、戦前の子供の教育に関して。

当時の庶民には、子どもに教育をつけるという考えはなかった。一人で食っていけるようにする、という意識しかなかった。

また、戦争に関しては、

このままいけば(中略)日本が敗北することが、論理的にはぼんやりと推測できた。しかし、「自分も周囲の人々も、それ以上のことは考えられなかった。考える能力もなければ情報もなかった。考えたくなかったのかもしれない」。

自分が戦争を支持したという自覚もないし、反対したという自覚もない。なんとなく流されていた。(中略)深く考えるという習慣もなかったし、そのための材料もなかった。俺たち一般人は、みんなそんなものだったと思う。

と、一般庶民の素直な本心を語ってくれている。

「情報」の少なさ、または「おかしさ」について、謙二氏は度々意見を述べている。日本が無条件降伏を認めた後も、「(日清戦争前までの領土が残ることについて)今まで『みな殺しにされる』とばかり聞いていたから、日本という国が残るだけでも、意外と寛大だなと思った」とある。戦時中の日本が、いかに「情報統制」されていたかが分かる発言ではないだろうか。

自分が二十歳のころは、世の中の仕組みや、本当のことを知らないで育った。(中略)いまは本当のことを知ろうと思ったら、知ることができる。それなのに、自分の見たくないものは見たがらない人、学ぼうともしない人が多すぎる。

と、苦言を呈する発言も見受けられた。

最後に、英二氏は人生の苦しい局面で、もっとも大事なことは何かを聞いた。

希望だ。それがあれば、人間は生きていける

そう謙二氏は答えたという。

謙二氏は戦争に行き、収容所で強制労働をさせられ、日本に帰って来てからも貧困、当時は死病とされていた結核と戦い、まさに「波瀾万丈」の人生だった。そんな人生を送った一人の男性の言葉だからこそ、心に重く響くものがあった。

文=雨野裾