戦国大名が『源氏物語』を読んだのはなぜ? 戦国武将と意外な読書の遍歴

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/15


『戦国大名と読書』(小和田哲男/柏書房)

合戦に明け暮れているイメージのある戦国武将たち。だが実際のところ、武将たちは「リーダー」でもあった。ただ日々を戦のことだけを考え、学び、生きていたわけではない。政治的な判断力、領土を治める治世力、人心をつかむ力……戦国武将には様々な能力が求められていた。

では、どのようにして戦国武将はそのような力を養っていたのだろうか。

それを解明する糸口となるのが、「読んでいた本」だ。『戦国大名と読書』(小和田哲男/柏書房)は、戦国大名が幼年期に受けていた「教育」と、広く読まれていた書籍によって、戦国武将の「内面」にアプローチした一冊である。戦国武将の内面を知りたいなら、幼少時代における「教育内容」を知ることがその一歩となるのだ。

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身分の差はあれど、戦国時代、武将の子どもたちは寺で生活をしていた例が多くある。それは「教育」のためだった。当時における「教師」は、主に知識人である僧侶が行っていたことが多い。本書では禅僧の役割について書かれている。

越後の戦国大名、上杉謙信は林泉寺の天室光育(てんしつこういく)という禅僧に教えを受けており、また、謙信の養子となった上杉景勝、その重臣で大河ドラマにもなった直江兼続は北高全祝(ほっこうぜんしゅく)という曹洞宗の僧に教育をされた。独眼竜の伊達政宗を育てたのは虎哉宗乙(こさいそういつ)という禅僧であり、政宗が大人になってからも、政治・軍事・外交顧問のような役割を果たし、その付き合いは長きにわたった。当時、このように幼い頃の師匠が、そのまま政治顧問になることは多くあったという。

それでは、一体、どのような「教え」を受けたのか。それを「読書」からひもといてみよう。よく知られているのが、『庭訓往来』だ。日本史の教科書で名前を聞いたことがある人もいるのではないだろうか。

これは南北朝期に完成した「往復のお手紙」のことだ。「お手紙」を通して、手紙の形式と共に、出て来る語彙を学ぶこともでき、読み書きを覚えながら「社会生活上の規範を習得できる」仕組みになっている。例えば7月のお手紙では、差出人が「直接に上書する詫び、衣裳借用の申し入れ」の手紙を送り、その返事が「返事の言葉、申し入れの衣裳のほかに諸道具・諸武器貸与の返事」といった具合に、手紙におけるマナーと、それに対する返答を具体例と共に学べるようになっているのだ。

この他に、今で言うところの「道徳」に関する教科書『実語教』というものもある。これは漢文で書かれているのだが、和訳して紹介すると「他人の喜びを聞いたら、あなたも一緒に喜びなさい」「玉は磨かなければ光らない。光のない玉は石瓦となる」など、修養の面にも触れられている。

以上は初等教育であり、成長を重ねた武将たちの必読書となるのが「四書五経」だ。「四書」は『大学』『中庸』『論語』『孟子』という漢籍。「五経」はさらに上級者レベルの書物で『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』のこと。これも戦国武将の政治力やリーダーシップ力を培うための修養の書籍であった。また、武将たちは『平家物語』『太平記』などの軍記を読むことで、過去の合戦から戦法を学ぶこともあったそうだ。

そんな中、少し異質に感じるのが『源氏物語』だ。これは軍記ではなく、王朝文学であり、現代においては「恋愛小説」のような認識が強いかもしれない。こういった『源氏物語』『伊勢物語』なども、広く武将たちに読まれていた。

なぜ一見、武将とは結びつかない「文学」を読んでいたのか。それは「教養」の一つだったからだ。

「連歌会」や「歌会」などに招かれた際、基礎教養として『源氏物語』『伊勢物語』などの知識が必要であった。『源氏物語』を読んでいることを前提に、連歌が始まる時もある。そんな時に、自分だけ無知でいることは恥ずかしいことだったのだ(ちなみに、連歌とは複数人で短歌を詠み連ねて行く遊びである)。武将たちは歌を詠み、中には漢詩を作る武将もいた。合戦に明け暮れる日々でも「風流」を忘れなかったのである。戦国大名の北条早雲が掲げた家訓の中にも「歌の嗜みがないようでは品格が劣る」と書かれている条があるほどだ。

現代でも、「他人の書棚を見れば相手のことがよく分かる」と言われる。同じように、戦国大名の「読書歴」を追うことは、当時の人の心情、マナー、知識レベルなどをうかがい知ることができる最良のアプローチなのだ。

文=雨野裾