認知症の母の首に手をかけていた5分間「母は抵抗をしなかった」 法廷で語られる“一線を越えてしまった人たち”の言葉

社会

公開日:2016/4/18


『母さんごめん、もう無理だ きょうも傍聴席にいます』(朝日新聞社会部/幻冬舎)

 朝日新聞社会部には、裁判の傍聴を専門にする記者たちがいる。そのひとりが上司に「いま担当している裁判で100行書きたい。(紙面の文字数上限の)30行じゃとても書けないですよ」と直訴してきたという。

 上司が無理だと突っぱねると、「ネットだけでもいいです。読まれる自信があります!」と猛アピールされて始まったのが、朝日新聞電子版のみでの人気企画「きょうも傍聴席にいます」であると「あとがき」は明かす。

 本書『母さんごめん、もう無理だ きょうも傍聴席にいます』(朝日新聞社会部/幻冬舎)には、裁判で交わされる「生の言葉」を伝えることに使命感を持つ、そんな記者たちが傍聴し、記録した、29件の刑事裁判の様子と判決内容が収められている(初出は2013年5月30日から15年12月30日の電子版)。

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「検察官は余計なことを言わないように」──。こう裁判官の叱咤(しった)が飛んだのは2013年6月13日の東京地裁。被告人はインサイダー取引の罪に問われた霞ケ関の元エリート官僚だ。

 発言の機会を与えられた被告が検察に対し「あり得ない捜査だった」と毒づくと、すぐに検察官が「あなたがやったことの方が信じられないですけどね」と応戦する。すると裁判官が、余計なことは言うなと検察官をたしなめるのだ。(本書収録の「官僚の『過ち』妻の影」より要約)

 まるで子ども のケンカを諌(いさ)めるかのような裁判官。刑事事件の中でも、殺人がからまない法廷では、こんな失笑を買いそうなワンシーンに出会うこともあるようだ。

老々介護が生んだ悲劇「母さんごめん、もう無理だ」

 しかし、本書のタイトルにもなった「母さんごめん、もう無理だ」のように、うつ病を抱える高齢者の被告(74歳)が「老々介護」の疲れから、認知症の母親(98歳)の首に手をかけた事件の法廷ともなれば、軽やかな空気が生まれるべくもないだろう。

 その裁判の詳細は本書に譲るが、母の首に手をかけていた5分間の様子を問われた被告人は、こう答えている。「母は抵抗をしなかった」。

 認知症を患いながらも息子の負担を察し、解放してあげようと同意したのだろうか。母の愛情ともとれるその最期の様子に、その場にいた誰もがやり場のない切なさをかみしめたに違いない。

「法廷は、人生と世相の縮図である」と本書の帯が語る。子ども手をかけた親、8人もだました結婚詐欺師、麻薬の運び屋になったおばあちゃん、金がらみで転落した弁護士や銀行員など、本書に収録された被告人たちのさまざまな人生模様を傍観しながらも、自分もいつ、なにがきっかけで道を外すかはわからない、と思わず戒める。

「声優のアイコ」こと白井みなと被告なども登場

 また、昏睡強盗事件の「声優のアイコ」こと白井みなと被告、パソコンの遠隔操作事件の木村陽平被告、自転車の窃盗で捕まった芸人の大島繁雄被告、人気漫画『黒子のバスケ』の作者に牙をむいた和田修一被告など、記憶に新しい事件の裁判 も本書に登場する。(被告名は書籍内での表記)

 本書は、有名人ともなった彼らの法廷での発言を知る機会にもなれば、各事件の経緯や被告人の犯行動機を追いつつ、情状酌量の余地を自分なりに考慮し、傍聴マニアよろしく量刑を予想して答え合わせをする、といった使い方もできる。

 しかしなにより本書の特徴は、29のドラマがすべて、自分たちが生きている社会のリアルを知るための映し鏡になるということだろう。『「生の言葉」を伝え続ける理由』と題されたコラムで、伊木緑記者はこう記している。

(前略)どの事件も、私たちが生きる社会のなかで起きている。裁判のなかで語られた言葉をたくさんの人と共有し、それぞれが思いをはせることで、誰もが生きやすい社会に一歩でも近づけたら。そしてそれが未来の加害者と被害者を一人でも減らすことにつながれば──。そう願っている。

 登場する事件は決して、他人事で片付けられるものばかりではない。当事者にはならずとも、相談されたり、助けを求められたりすることで関わるかもしれない。そのとき自分は、どんな選択をするだろうか。そんなことを考えてみるきっかけとなる一冊だ。

文=町田光