ペリー提督も日本人の淫乱ぶりに激おこ! 受験には絶対出ないエロ日本史

社会

公開日:2016/5/16


『エロティック日本史』(下川耽史/幻冬舎)

 酒の肴にもなるエロ話。老若男女の誰もが平和に話せるような、ここぞいうときの切り札にもなりうる。さて、いつの時代も変わらない気もするのだが、どうやら日本史をひもとくとエロがその重要な一端を担っていたという事実もあるようだ。

 本稿で紹介する書籍『エロティック日本史』(下川耽史/幻冬舎)は、歴史書や記録に残る史実から、エロにまつわるエピソードをまとめた1冊である。受験には絶対出ない、とはいえ、エロいとはいいながらも知っていたら(きっといつか)使える日本史のエピソードを本書より紹介していこう。

神様のセックスから生まれたとされる日本列島と八百万の神々

 日本で初めてセックスをしたというのが、歴史書の『古事記』や『日本書紀』にもその名を残すイザナギとイザナミという男女の神である。

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 その一端を表すのが『日本書紀』の「神代編」に記された一節だ。イザナギはこの中で「自分には陽の元(はじめ)といわれるものがある」といったという。そこで「自分には陰の元がある」と答えたイザナミに対して、ふたたびイザナギは「自分の陽をあなたの陰と合一させよう」と返したのがその始まりとされる。

 ここでいう陽と陰はまぎれもなく男性器と女性器を表すのだが、つがいで交尾にいそしむ野鳥のセキレイをヒントにした彼らは、後背位により結ばれた。そして、彼らの行為により淡路島や九州などの日本列島が築かれてきたというのだ。

 私たちの踏むこの大地が、神々のセックスにより誕生したというのは驚きだ。しかし、さらに驚くべきなのは「禊(みそぎ)」の一環として、混浴で男女が入り乱れた結果として神々が生まれたという点である。

 神話の時代。八百万の神々はフリーセックスに興じていたと本書はいう。歴史書によればそれは「湯川浴み」と呼ばれ、宗教的な意味合いを持つ水浴びを意味していたのだが、じつは、先のイザナギも混浴に身を寄せたという。

 ある日、黄泉の国のイザナミを訪れたイザナギは、彼女の醜悪な姿に恐れをなして逃げ出した。追い回すイザナミから逃れようと、杖を投げ捨て、衣類や履き物を脱ぎ捨てながら疾走するイザナギ。やがて振り払った先でたどり着いたのが、九州の「小戸の橘」という河口だったというのだ。そこでイザナギは自身の「穢(けが)れ」と落とそうと禊を行うわけだが、そのときに生まれたのが厄除けを司る八十枉津日神(やそまがつひのかみ)をはじめとする、9柱の神々だった。

日本最古の女性向け“大人のおもちゃ”はヤマイモだった

 昨今、男性向けだけではなく女性向けのいわゆる「大人のおもちゃ」も種類がかなり豊富になった印象もある。じつは、そのルーツは奈良時代にあるという。

 その伝承を裏付けるのは、日本史上の3大悪人としても知られる弓削道鏡(ゆげのどうきょう)のエピソードだ。道鏡はまれにみる巨根だったというが、それを表すのが「道鏡は すわるとひざが 三つでき」という川柳だ。この一句は、道鏡が正座すると両ひざの真ん中に、ひざと同じほどの大きさでペニスが張り出すというのを意味している。

 たいそう立派なモノを持っていたことから、道鏡は当時の女帝・称徳天皇にかわいがられていた。道鏡の出身地に離宮を設けるほどだったというので、溺愛ぶりは相当なものだったのはいうまでもない。しかしある日、道鏡は性的な快楽を満たすために称徳天皇に「雑物」をすすめたのが『日本記略』に記されている。

 この雑物こそが記録される限りとなる最古の「大人のおもちゃ」である。ただ、この話には後日談があり、雑物が抜けなくなった称徳天皇は体調不良となり、やがては亡くなってしまった。何ともツッコみたくなるような話だが、ところで、そのとき道鏡が称徳天皇が差し出したものは何か。その記録は鎌倉時代の歴史書『古事談』にある。

 それによれば「称徳天皇は道鏡の陰(ペニス)をなお不足におぼし召されて、ヤマイモを以て陰形を作り、これを用いていたところ、折れて中に詰まってしまった」という記述がある。つまり、日本最古の大人のおもちゃはヤマイモをペニスの形に細工したものだったというわけだ。

ペリー提督も激おこだった日本人の淫乱ぶり!

 時代はだいぶ進み、明治維新まで時計の針を進めたい。日本史の有名人、開国を迫ったペリー提督はアメリカ政府にある報告書を提出した。

 ペリーは日本人の礼儀正しさを評価しながらも「驚くべき習慣を持っている」とありのままに当時の光景を伝えた。続けて報告されたのは「ある浴場での光景だが、男女が無分別に入り乱れて、互いの裸体を気にしないでいる」というもの。つまり、この日本そのものが誕生したきっかけともされる混浴文化に、目を丸くしたという事実だ。

 加えて、わいせつな図画がいたるところで見られる状況にも「人が汚らわしく堕落したことを示す恥ずべき烙印でもある」とかなりの激おこっぷりを発揮したペリーであるが、実際、江戸幕府から明治政府へと実権が切り替わるさなかで、国内でも警察の取り締まりが始まったという。

 明治5年には今でいう「軽犯罪法」にあたる「違式詿違(かいい)条例」を制定。自宅で裸になりノミ退治をしていた主婦が捕まった事例もあるほど厳しいものであったが、庶民の憩いの場でもあった銭湯もみずからの地位を守ろうとした。

 条例制定と時期を同じくして、東京に当時としては貴重だったガラスで男女の浴槽を区切る銭湯が生まれ人気を集めた。また、明治13年には、男女の脱衣所に通用口を設けた銭湯が誕生し、子どもの面倒を見る親、互いに体を洗い流す夫婦のほか、女性から声をかけられた男性がいそいそと女風呂へと足を運ぶ光景も見られたという。

 どこまでが嘘かまことか。ただひとついえるのは、歴史をたどれば、現代にいたるまでの日本にはエロが多かれ少なかれ寄与していたのは事実のようだ。昨今は映像作品ひとつとっても、個々人の趣味嗜好がかなり細分化されているようにも思うがそれもまた、百年、千年と時を刻めば日本史に残る重要な記録となりうる。

文=カネコシュウヘイ