日本では美少年との同性愛が極めて普通だった…という歴史を知っていますか?

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/15


『男色の日本史――なぜ世界有数の同性愛文化が栄えたのか』(ゲイリー・P・リュープ:著、藤田真利子:訳/作品社)

本書を読んで、驚いた。日本には、開国まで男性間の同性愛が「愛情の形」として当然のごとく存在していた――この事実は、まさに衝撃だった。逆に、この歴史がなぜこれほど現代日本人に知られていないのか、ということが不思議にすら思えた。

織田信長と小姓の森蘭丸の同性愛関係をご存じの方は多いだろう。これまでは私も、信長ならではの奇抜な行動とばかり思っていた。だが実際には、当時のほとんどの武将は寵愛する小姓を抱え、彼らと性的な関係を持っていた。男色はむしろ「武門の花」ですらあったのだ。

「BL」「腐女子」など、男性同士の恋愛に関するこれらの言葉も聞き慣れた現代。ある意味「特殊な嗜好」と捉えられがちだ。しかし、「同性愛」=「特殊」という固定観念を根底から覆す日本の同性愛の歴史を、外国人歴史研究家の視点で詳細に綴った著書が『男色の日本史――なぜ世界有数の同性愛文化が栄えたのか』(ゲイリー・P・リュープ: 著、藤田真利子:訳/作品社)だ。

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著者は、日本独特の社会構造と、男性の性的な対象が同性へと向かう経緯の関連について、膨大な資料をもとに考察を加えている。本書によると、日本で男性同性愛が広がりを見せ始めたのは、寺院での僧侶と「稚児」と呼ばれる少年たちとの間であったという。本来仏教は「女性との性行為」を厳しく禁じるものだが、これが性に関して寛容な日本古来の神道などと混じり合い、「女性は禁じられているが、同性ならば許される」という独特の観念を作り出した。日本は9世紀頃から、厳しい労役を逃れるため多くの男性が修行僧生活を送っており、一度入れば10年以上も寺院を出られない場合もあった。長期にわたり女性を禁じられ、若い男性や少年たちと共に生活するという特殊な環境により、13世紀前後から男性間の同性愛は寺院内で当然のように認められるようになったという。

その後、日本の社会は封建主義的な武士の主従関係を重んじた。妻や子よりも領主と家臣の間で結ばれる関係の方が濃密であった。この領主と家臣との結びつきは、女性との情事を必要としないレベルまで誠実な同性愛的性質を帯びていたと著者は考察する。同性愛を禁じる風潮がなかったことも、これを助長する要因となった。そして、日本社会の中で正当な行動として認められた男性同性愛は、徳川幕府の時代に入ると、武士に町人の勢力が加わり全盛期を迎える。日本が開国を迎え、同性愛を認めない西洋文化が浸透するまで、男性同性愛は当然の行為として社会に存在し続けるのだ。

本書を読んで理解できる非常に興味深い点は、日本の歴史が男性同性愛という特殊な文化を育んだことだけではない。人類学的に、男性は本来「両性を愛する傾向」を持っていることが明らかにされている点だ。その本来的な欲求が、社会構造やその変化により、表出するかしないかなのだ、という点は、これまでの性に関する概念をそっくり覆す衝撃的な事実である。つまり、社会的に認められ、周囲の男性がみなそれを楽しんでいる環境があれば、男性は誰もが美しい同性との性的関係に惹かれる…この事実を、本書を読むと納得せざるを得ないのだ。

逆に言えば、現代の社会がどれだけ息苦しく「男」と「女」の関係に縛られているのか、残念な気すらしてくる。もっと開放的な、さまざまな愛情を経験できる社会になったらどんなに楽しいだろう――そんな思いにまでさせてくれる。ここにきてやっと、世界全体がより柔軟な「多様性」を受け入れる重要性に気づき始めた現代。日本は、頑固な固定観念に縛られずに多様な愛情を広く受け入れる、世界に例のない優れた文化が存在した国だということを、日本人はもっと理解し、誇らしく思うべきである。多くの人にぜひ読んでほしい衝撃的な歴史研究書である。

文=あおい