なぜ人はうわさ話が好きなのか? うわさの真意を求めることとは別の、人々の心意

社会

公開日:2016/7/5


『うわさと俗信 民俗学の手帖から』(常光 徹/河出書房新社)

 ネットの普及により、うわさ話が瞬く間に拡散するようになったことが良いことなのか悪いことなのかはひとまず措いて、誰かがその気になれば、情報の出どころを検証して真実に辿り着きそうにも思えるのに、何故か怪談話や都市伝説といった不思議な話と同じく、幽霊のようにうわさがネット上を漂っていたりする。しかし、『うわさと俗信 民俗学の手帖から』(常光 徹/河出書房新社)を読むと、うわさの真意を求めることとは別の、人々の心意というものが浮かび上がってくる。

 民俗学に興味を持ち、中学校の教師をしながら地方に調査しに出かけては採話していた著者は、年を追うごとに語り手がいなくなり「伝承の衰退を肌で感じていた」という。しかし、児童文学作家の松谷みよ子氏から「あなたの目の前の伝承をみつめてみては」と助言され、自分の勤務先の生徒から話を聞き記録するようになったそうだ。

 学校といえば、「学校の怪談」である。無人の音楽室でピアノが鳴る話などは、鎌倉時代にはすでに箏(そう)が夜更けに鳴るという同想の話がみえ、「昔からの言い伝えの焼き直しにすぎない」のだとか。そのうえで、怪談話の機能について著者は、集団の秩序がつくりだす緊張を解消しているのだろうと推測し、また怪談に限らずうわさ話というものは、「仲間意識や連帯感を高める効果を生み出していく過程」でもあるとしている。なるほど、ストレスの解消や連帯する安心感が先に立つとなれば、真実を探るのは面倒な作業。日々の生活に追われていると、その気になるのは難しそうだ。

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 また、「学校の怪談」のような話を民俗学や口承文芸学では「世間話」というそうで、「時間と空間」を意味するこの語は、民俗学の立場では自分たちの属しない「外の世界から持ち運ばれてくる話」なのだとか。身近な話を世間話と呼ぶ一般的な認識とは乖離しているように感じるものの、自分自身の体験談ではないという意味においては共通しており、「新鮮な驚きや関心を呼ぶ」ことは人々の心を興奮させるものであろう。

 興味深いのは、うわさ話には尾ヒレがつきものである一方、語り手が関心を持っていない部分は無意識に削られ、ときに聞き手の反応に合わせて一部を変えていくという点。それはつまり、物語として洗練され文芸性を獲得していくということでもある。どうやら人はうわさ話をするとき、即席の作家になるものらしい。

 そして本書のもうひとつのテーマである俗信の方は、茶柱が立つのを見て喜んだり、霊柩車を見かけたら親指を隠したり、といったものの総称で、その内容は多種多様なため著者は「簡潔に規定するのは容易ではない」としている。しかし、先のテーマのうわさと組み合わせると、私には物語を脱いだ道具や仕掛けのようにも思える。例えば親指を隠す仕草は江戸時代の書物に、畏怖することがあったときには「左右の大指(親指)の爪のあいだから魂魄(こんぱく)が出入りする」から隠せとする記事があるそうで、その伝承が変容を重ねながら生きていることを著者は示唆している。あとがきにおいて、俗信は一行知識のような断片的なものであり収集が難しいため調査・研究が遅れている分野であるものの、「これからの進展が大いに期待できる魅力的な領域」と語っている。それこそネット環境は、この手の情報収集には有用だろうと思う。

 ただ、気がかりなことがある。著者は時代の経過により語り手がいなくなることを危惧していたが、ネットにおいてはその意味合いが変わりそうなことだ。簡単にコピーして貼り付けたりシェアできたりと、一言一句変わること無く伝わるという正確さがある反面、うわさ話に多様性や物語性が失われ、伝播者は語り手ではなくなる。せめて人に伝えるときには、即席の作家になってみてはどうか。うーむ、それでは真実から遠のかせてしまうか。

文=清水銀嶺