美少女プラモの“パンツ”が当たり前にあると思うなよ!“パンツ”が出現した歴史を巡る、あるリビドーの爆発

エンタメ

更新日:2016/7/30


『我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか』(廣田恵介/双葉社)

 非常にアグレッシブなタイトル、『我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか』(廣田恵介/双葉社)に驚く人もいるかもしれない。しかしこのタイトルは、美少女のプラモデルやフィギュアの「パンツ」に関する歴史を追う本書を貫くテーマであり、読了すると「これ以外にはあり得ない」と思うことだろう。そしてオタクと呼ばれる人たちに偏見がある人ほど、本書をぜひ読んでもらいたいと思う。これは彼らの愛の話でもある。

 1967年生まれの著者・廣田恵介氏は14歳だった1981年、アニメ『うる星やつら』に魅了され、ヒロインのラムに恋をしてしまう。思春期にはよくあることだ。その男子中学生が想いをさらに募らせ、しかも性の目覚めというなんともややこしい時期に出逢ってしまったのが、表紙に写っている「1/12 ハイ・スクールラムちゃん」というプラモデルだった……これが物語のすべての始まりだ。この悩ましい存在によって、廣田氏は自己肯定と自己否定がないまぜになったままリビドーを複雑化させ、大人になってまでもこじらせ続けることになる。

 1982年の終わりにバンダイから4種類発売されたラムちゃんのプラモデル、3種類はおなじみの虎縞模様のビキニとロングブーツ姿なのだが、「ハイ・スクールラムちゃん」のみセーラー服を着用していたことが廣田少年を困惑させる。スカートの下に「パンツ」が存在していたのだ。

advertisement

 パンツが存在していた、というのは正しい表現ではない。帯にある「これは単なるプラスチックの欠片か。それとも憧れキャラの下着かーー。」というキャッチコピーが表す通り、それは物質的にはただのプラスチックの塊に過ぎない。しかし2次元の存在であったキャラクターが立体化され、アニメでは描写されていないはずのリボンがついたパンツをはいた姿で自分の目の前に存在している。しかもパンツに触っても、何色に塗っても、それは製作者の自由なのだ。

 さらにこのキットのいけずなところは、丁寧に塗装をしたところで、最後まで組み立ててしまうと前後に分割されたスカートのパーツに覆われ、せっかくのパンツの全体像が見えなくなってしまうことだった(下から覗き込むだけになってしまう)。これは妄想逞しい全国の男子を大いに惑わせることとなった。もちろん廣田少年も悩み、苦しみ、逡巡し、煩悶する。しかしその悩ましい問題を「スカートを接着せず、着脱できるように改造する」という手段で回避することに成功してしまうのだ。

 ところが自由には責任が伴う。パンツを見られるように改造したことは誰にも言えない秘密となり、廣田少年の心に大きな影を落とすことになる。これは決して大袈裟ではない。何時の世も中学生の秘め事というのは非常に重大であり、それが他人にバレることは形成中のアイデンティティの根幹を揺るがし、最悪の場合人格を破壊しかねない大問題なのだ。また、たとえバレなかったとしても、「本当はパンツを見たかった」という事実を「自分は悪くない」と頑なに否定したことが強烈なドグマとなって、何事も否定的に捉えるようになってしまい、その先の人生のあらゆる可能性を潰してしまう危険性をも孕んでいるのだ。

 そんな傷を抱えたまま大人になり、様々な職を経てライターとなった廣田氏は、美少女のプラモデルやフィギュアの黎明期からの歴史を自身の思い出と重ね合わせながら丹念に検証し、「なぜパンツを作ったのか?」を当時制作に関わった人たちにインタビューしていく。その中で様々な事実に行き当たり、やがて廣田氏は14歳から抱え続けていた苦しい思いを吐露し、長年の苦悩を昇華していく。

 今では隆盛を誇り、パンツがあるのが当たり前な美少女プラモデルやフィギュア。しかしその「当たり前」には、先人たちの戦いがあり、多くの人々のアイデアや苦悩がたっぷりと詰まっている。「お前ら、パンツが当たり前にあると思うなよ!」――そんな声が聞こえてくるような、魂の書であった。

文=成田全(ナリタタモツ)