清純派に擬態した“隠れビッチ”。男にチヤホヤされることが生きがいだった女が、本当に求めていたのは――

マンガ

更新日:2017/4/17

『“隠れビッチ”やってました。』(あらいぴろよ/光文社)

 隠れビッチとは清純派に擬態したビッチのこと。知らない人のためにビッチの説明もしておくと、主に性的に奔放な女性を貶める時に使う言葉のことだ。その「隠れバージョン」は、一見、清純そうに見えるが、実際は好きでもない男性に気があるように見せかけ、相手から好意を得られるように男性をたぶらかす魔性の存在だ。相手から告白される「気持ちよさ」や、チヤホヤされることが目的で、それ以上の関係を望んでいない。そんな女が主人公の、コミックエッセイがある。

“隠れビッチ”やってました。』(あらいぴろよ/光文社)は、男にチヤホヤされたいがために自分の本性を隠し、相手の好みの女性を演じて、様々な男性の恋心を弄んだ女性が、「本当に自分が求めているもの」を見つけ、自身と向き合うまでの10年間を描いた実話である。

 最初、「ビッチの実話なんて読みたいか?」と思いつつも手に取った本作。表紙や帯から、「最終的には反省するんだろうけど……」とは分かったが、散々相手の心を弄んでおいて、改心も何もないのでは? とあまり期待せずに読んだ。

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 だが、想像以上にギャグ要素が面白く、想像以上にビッチの闇が深く、ビッチを辞めるまでの過程がしんどく、予想外に「共感する」ことができた。個人的に今年で一番、読み応えのあるコミックエッセイだった。

 序盤は、隠れビッチとして「今日の(男)で、告られた人数は50人」と友達に自慢している主人公の「男を落とすテクニック」について書かれている(ちなみに、著者の容姿は10人並みだそう)。また、肉食系、草食系、ノーマル系、インテリ系など、男子のジャンルごとに、効果的に好きになってもらえるビッチ技術を大公開。様々な男性についての考察は、『臨死!! 江古田ちゃん』(瀧波ユカリ/講談社)を思わせる面白さがあった。

 中盤からラストまでは、隠れビッチである自分に対する嫌悪感や、罪悪感について、そして愛する人ができ、隠れビッチを辞め、自分が本当に向き合わなければならないこと、本当に欲しかったものを手に入れるまでの、果てしない葛藤と苦悩が描かれている。

 そもそも、著者が隠れビッチになったのは、幼少期の家庭環境が大きく関係している。著者の父親は酒乱DV男だった。母親は腕力でも、経済的にも、夫の支配下に置かれ、「子どもたちのために」つまり、自分のために夫とは別れずに、「いけにえ」になってくれていた。

 著者は誰かに愛されたくて、でも愛してもらえなくて、自分でさえも自分のことを好きになることができず、心の隙間を男性にチヤホヤされることで埋めていた。自分に自信がないからこそ、多くの相手に求められることで、満たされた気持ちになっていた。男に、逃げていたのだ。

 そのことに気づいてから、「ちゃんと生きること」を決意した著者だったが、幼い頃からの深い闇は簡単に消えたりはしない。

「清純派」の擬態をしていない自分を好きだと言ってくれる相手にも出会い、お付き合いを始めたが、「愛する人に愛されること」「受け入れてもらうこと」が幸せで気持ちよいことに気づき、間違った愛情を押し付ける。「どんな自分でも受け入れて!」と理不尽なワガママを尽くした結果、相手から「距離を置きたい」と言われてしまう。

 著者は「コンプレックスの塊」で、自分に自信を持てないから、独占欲や支配欲が生まれてしまうんだと考え、「私のダメな部分も知ってて選んでくれた、この人にとって誇れる人間になりたい」と、「よい人間になれるよう誓った」。

 そして、その相手とは別れることなく関係が続き、結婚して子どもができる。

 しかしそんな矢先、諸悪の根源であったDV父親がガンになり、なおかつ愛人がいたことが分かり、著者の心はさらに乱れる。ラストの章「流血サドンデス デスマッチ」は、今までのコメディ要素がほとんど無くなり、著者の「許すことのできない」「抜け出せない苦しみ」が重く胸に圧し掛かるように綴られていた。

 そして最終的に著者が気づいた「大切なこと」は、ビッチとは縁遠い人でも、きっと共感のできることだと思う。

「ビッチの実話なんて読みたいか?」と毛嫌いしなくて良かった。出会えて良かったと思える、コミックエッセイだった。

文=雨野裾