“乳バンド”から“ブラジャー”へ。日本初「肌色下着」を考案!「女性が納得してくれるモノ作りをしたい」と「ブラ作り」に懸けた男の生涯とは?

ビジネス

公開日:2016/12/13

『ブラジャーで勲章をもらった男』(西田清美/集英社)

 日本の女性下着は「白」が常識だった時代に、「肌色」を考案した男がいる。その男は女性以上にブラジャーの将来を想い、美しさや機能性を考え、「長時間つけても苦しくないブラ」を作りだすことに生涯をかけた。

 2011年11月。彼は――西田清美は、婦人下着産業界への長年の貢献が評価され、藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を下賜される。そんな男の一生を綴ったのが『ブラジャーで勲章をもらった男』(西田清美/集英社)だ。

 本書は西田会長の経営哲学を記したビジネス書でもあり、戦後、一つの日本企業が成長していく様子を描いたノンフィクションでもあり、西田会長個人の自叙伝のようでもあるが、「ブラジャーについての正しい知識を女性に得てもらう」という目的もある、異色の一冊。男性、女性問わず、様々な観点から読者が楽しめるようになっている。

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 西田会長は、ワコール、トリンプに次ぐ、百貨店売上3位のブランド「カドリールニシダ」という下着会社を興した。
社名をご存じない方も多いと思う。それはカドリールニシダが長らくOEM(ブランドメーカーから依頼を受けて商品を開発製造する業態)として仕事を行っており、自社ブランドを持っていなかったからだ。だが、様々なブランド名で販売されている女性下着の中には、カドリールニシダが製造している物も多い。

 下着業界の「縁の下の力持ち」であるカドリールニシダは1968年、西田会長が38歳の時に創業した。

 そもそもの始まりは、西田会長が高校を卒業後、戦後の草創期に、後にワコールとなる「和江商事」に入社したこと。そこから、西田会長とブラジャーとの長い付き合いが始まる。

 戦後、当時は「乳バンド」と呼ばれていた「ブラジャー」は(物資が不足しているため)できるだけ小さな布で胸の部分だけを押さえ、後ろにゴムを付けて引っ張ったものだったが、日本人女性の間では洋装も増え、それに合わせた下着が求められるようになった。

 アクセサリーをはじめとする装身具を売り歩いていた和江商事にも「乳バンドはないのか?」という要望が多く寄せられるようになり、大きなビジネスチャンスを感じた、後にワコールのカリスマ社長となる塚本幸一が「ブラジャー」を製造・販売を始める。当時、まだ十代だった西田会長は、その下着の黎明期に居合わせたのだ。

 その後、和江商事は女性下着で業績を伸ばし、西田会長は東京支社での営業マン、本社のある京都に戻ってからの生産管理担当などを経た。そのままワコールで骨を埋める気でいたが、恩義のある姉の頼みとあり、別の新しい会社に転職をすることに。

 しかし、そこでは根も葉もない「不正」の嫌疑をかけられ、曲がったことが大嫌いな西田会長は「冗談じゃねぇ」と、その会社を辞めてしまう。

 そこから仕事もお金もない「どん底時代」を経て、紆余曲折の末「カドリールニシダ」を創業する。当時「作れば売れる」ブラジャー業界は「手っ取り早く大量生産した安価なもの」が多かったが、西田会長はオリジナル性や品質、なによりも「着け心地」を大切にした。

 「高くても、いいもの」を追求した西田会長のブラジャーへの真摯な向き合い方から、「白」が常識だった下着に「肌色」が生まれたと言っても過言ではない。

 カドリールニシダは、その後中国、ベトナムにも工場を持ち、自社ブランドも立ち上げ、半世紀経った現在でも女性下着界で異彩を放っている。

 

 西田会長の信念は、ずっと変わっていない。

自分は日本女性のための、女性が納得してくれるモノ作りをしたい。(中略)。企業はエゴではあかん。社会に貢献しないと。社会と繋がりのない企業は絶対存続できない……。

 その繋がり方が「ブラジャー」であったのは、予想外な「偶然」だったが、西田会長の強い想いと、その信念に惹かれた社員たちが、日本の女性下着を支えてきた。知られざるブラジャーの歴史の裏には、正義感と男気の溢れる一人の男が存在していたのだ。

 本書はその男の一生を通して、読者の心を熱く揺さぶる一冊となっている。

文=雨野裾