第二次世界大戦下のフランスで出会った盲目の少女とナチスの少年兵【ピューリッツァー賞受賞の感動作】

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/12

『すべての見えない光』(アンソニー・ドーア:著、藤井光:訳/新潮社)

2016年12月現在、アニメ映画『この世界の片隅に』がヒットし、大反響をもたらしている。多くの人が「戦争という惨劇の中でも人間らしい営みは続いていたはず」というメッセージに共感したからだろう。

2015年のピューリッツァー賞を受賞した長編小説『すべての見えない光』(アンソニー・ドーア:著、藤井光:訳/新潮社)もまた、戦争に翻弄される二人の少年少女の姿を美しく綴った傑作であり、『この世界の片隅に』と通底するテーマを備えている。何より、主人公たちはもちろん、全ての登場人物の息遣いが聞こえてきそうなほどの描写力に圧倒されることだろう。そこで読者が知るのは英雄や指導者の存在だけでは語れない、戦時中を生きた人々の心模様である。

本作の舞台は第二次世界大戦中のヨーロッパ。ドイツがフランスに侵攻し、パリが陥落した時代である。主人公になるのはフランス人の少女とドイツでナチスの技術兵として生きる少年。別々の場所で生きる二人が少しずつ距離を縮めていく様子が交互に描かれていく。

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主人公の一人、マリー=ロールは幼い頃に失明した少女である。それでも知的好奇心が旺盛な彼女は父親から点字を教わり、大好きな読書に没頭しながら暮らしている。彼女のお気に入りは『八十日間世界一周』『海底二万里』といったジュール・ヴェルヌの冒険小説。戦火を逃れてパリから静かな田舎町、サン・マロに引っ越した後もマリーは父親をはじめ周囲の人からの愛情を受けながら優しい人間に育っていく。

もう一人の主人公、ヴェルナーは妹のユッタと一緒にドイツの炭鉱地帯にある孤児院で育てられた。孤児院の子供たちは肉体労働ができる年齢になれば例外なく炭鉱夫となり厳しい仕事を強いられる。しかし、ヴェルナーには天才的な工学の才能があった。やがてヴェルナーはナチスの少年兵として訓練を受け、戦地に赴くことになる。

二人の毎日は辛いことばかりだ。マリーの父親は投獄され、手紙でしかやりとりができなくなってしまう。盲目のマリーはドイツ兵が襲ってくる恐怖に耐えながら、健気に毎日の家事をこなしていく。訓練のために寮生となったヴェルナーもまたユッタに手紙を書くものの、上層部によって内容は検閲され墨で添削された文章しか届けてもらえない。そして、理不尽な訓練によって友人が傷ついていく。環境が全く異なる二人だが、その境遇は似通っている。フランスだろうとドイツだろうと、戦時下では善良な人間でも時代に抗えずに人生を狂わされる。戦争が損なわせるのは肉体以上に心なのだ。

本作の文体は叙事詩のようで人の死や戦火も淡々と語られる。読者の淡い期待すら無視するかのように残酷な展開も待ち受けている。それは戦争の悲劇そのものだ。だからこそ、やがて必然に導かれるようにしてマリーとヴェルナーが出会い、僅かな時間を一緒に過ごす姿が神々しいものとして映る。破壊されたサン・マロの街並みの中で、それでも心を通わせる二人は人類全ての希望のようでもある。

タイトルは「数学的には目に見える光は存在しない」という学説からの引用であり、ヴェルナーとユッタが孤児院で耳を傾けていたラジオから聞こえてきた声でもある。そう、確かに光は目に見えない。しかし、確かに世界には光が存在する。それは人から人へと受け継がれてきた生の喜びだ。マリーが本の世界に救いを感じ、ヴェルナーがラジオからの声に癒されたように、辛いときでも些細な喜びを見つけて守り続けることが人間らしい生き方なのだと本作は語りかけてくる。

彼女は思う。一時間が過ぎるごとに、戦争の記憶を持つ誰かが、世界から落ちて消えていく。
わたしたちは、草になってもまた立ち上がる。花になって。歌になって。

時代を揺るがす大事件が起きたとき、当時に存在していたはずの人々の感情は時間と共に忘れ去られ、いつの間にか単なる歴史の一項目に収められてしまう。しかし、本当に悲劇を繰り返さないためには教科書や数字では分からない当時の人々の生を見つめることが必要なのではないだろうか。

文=石塚就一