大学受験浪人経験から培われる「浪人力」があるとすれば何だろう

社会

公開日:2017/1/26


現代の浪人数は30年前の3分の1!

 受験シーズンもいよいよ本番を迎え、先週末には寒波の中、57万人以上がセンター試験に挑戦しました。いつも思うのですが、なぜ日本は毎年毎年、この最も寒く、夜明けが遅く、体調管理が難しい冬に限って、子どもたちに極限の緊張と最大出力のパフォーマンスを強いるのでしょうね? どうも日本の受験が暗いイメージなのは、寒い時期に行われるせいで、試験以外の不安要素が大きいからじゃないか。これが夏なら、だいぶ精神的には気楽になるんじゃないか、入学ギリギリ前まで選考を延ばして子供たちにベスト得点を出させようとしなくてもさぁ……と、おそらくこういうことを言いたがる私のような輩は、この時期SNSにたくさん出没するのでしょうけれども、それでもやっぱりそう思っちゃうんです。だって寒いんだもん。アタマ、活動停止するもん(私のアタマは、ですけど)。

 閑話休題。こうして2月あたりから大学入試結果が続々発表となるわけですが、そこでサクラサカなかった諸君の中には「どうしてもあの大学へ行きたい」と浪人を選ぶ人もいるでしょう。でもやはり大学全入時代のこのご時世、最近は定員割れもありふれた時代ですから、浪人してまで大学に入る人というのもだいぶ減った印象があります。

 浪人数の推移について、わかりやすくまとまった良記事(合格サプリ『浪人生の数って減っているの?統計から見た浪人について』)があるのですが、その記事によれば、2014年時点では「とにかく、7.7人に1人が浪人生活を送っている計算になります」とのこと。さらに2000年のデータを見てみましょう。大学入学者数60万人のうち、なんと12万人が浪人生なのです。2000年は5人に1人が浪人生だったのです。もっと昔を見てみましょう。1992年は3人に1人、そして1985年は2.5人に1人が浪人生だったのです!

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 30年前は、今の3倍もの浪人生がいたことになります。少子化で18歳以下の人口が減っていることを考えたとしても、浪人生の数の減りは顕著といえるでしょう。やはり現代のこどもたちは現役合格志向。浪人を選択する人の数は著しく減っているようです。

浪人して良かったことって何だろう

 1973年生まれの私の世代(団塊ジュニア)は一浪はわりと当たり前で、二浪やそれ以上の「多浪」もちょいちょい見かけたものでした。なんたって1992年の受験当時、浪人生は3人に1人ですからね。ちなみに私も一浪しております(詳細後述)。「仮面浪人」なんて言葉に至っては、今の子は知っているのかなぁ? 希望ではない大学に籍を置いて、翌年再び本命の別大学を受験する人々ですが、受かる人もいれば受からない人もいました。

 で、約25年前の当時を振り返って思うのですが、そうやって浪人を経験したことによって、社会人になってから役立つ「何か」ってあるのだろうか? 浪人したから俺は/私はより賢くなったとか、打たれ強くなったとか、意志が強くなったとか麻雀が強くなったとか(特に男子は麻雀に関しては一定数いるはず)、あるのだろうか?

 ありそうですよね。真面目な子なら、それこそPDCAなどの概念がない時代の「1年を見渡し、効率良く使って、細分化したタスクをこなして目標を達成する自己管理能力」とかね。「客観的な自己観察力」とか、「誘惑に負けない力」とかね。わー、なんかキラキラしていますね! 予備校にお金出した甲斐がある字面ですよねー。

 まして浪人の末、第1志望校に合格できたのなら、結果オーライでもう全肯定されるもの。私なんて、「予備校(東大・京大コース)にイケメンが一人もいない」を理由にドロップアウトして遊び呆けた一浪生活のあげく第1志望にはご縁がなく、現役の時に合格を「蹴った」はずの大学を滑り止め受験して結局そこに入学しています。ホント、散々お金をかけて何の道楽なんだろうか。自分の子どもだったら勘当モノのチャラチャラぶりでした。そりゃ受かるわけないわ。でもねー、そんな本来の目的を見失って迷走していた私ですが、確実に浪人時代があったからこそ培われたものがあるんです。

「しくじり」「負け」の苦い味を知っている

 しくじる、醜態を晒す、辛酸を舐める、どうカッコつけても結局「負け犬」の1年間。19歳という、生き物としてのポテンシャルが最高値を叩き出しているギラギラした時期に、一足先に大学生となって人生をキラキラ謳歌している同級生たちの姿を遠くから眺めながら、ひたすら「出る単」や「桐原の英頻」のページを繰り、青本を3周し、「山川」や「実況中継」を電車の中で読み込む日々(ごめん、25年前なもんで、理科とか国語はもう何を勉強していたか忘れた)。心象風景は、すっかり日陰の裏通りです。

 でも、裏通りの匂いや影の濃さや、ドロドロの地べたに膝をつく感触を知っている人間は、それを知らない人間よりもはるかに強い。なぜなら「日陰の道を通ること、地べたに膝をつくこと、負けること、見苦しい様を見せること」を、怖がらないからです。

 大学受験の「浪人」に限らない。就職浪人でも、どういう「浪人」でもいい。どこにも所属できず、誰からもまともに承認されず、世間では「怪しい人」、なんなら「無」として扱われる時期、その完膚なき負け感に自分の全身を浸すのがいい。そして、ヒリヒリしたその皮膚感覚で、次の勝ちに挑戦する野望をふつふつとたぎらせるのがいい。負けた人間の感情を知っているのがいい。人の負けに共感してあげられるのがいい。

 高校の担任が(彼自身はとてもいい先生でしたが)、受験直前にクラスにハッパをかけるつもりでした話が印象に残っています。「浪人すると、現役の子に比べて生涯年収が1億違うという統計があります。安易に浪人すればいいと思って受験に向かわないように」。「生涯年収」……? それはバブルが弾けた直後とはいえ、終身雇用がスタンダードだった1991年であったがゆえ。あの時代らしさを物語っていますが、まぁその感覚が25年経った今の時代に通用するしないは傍に置いても、浪人するには当然いろいろな意味でコストがかかります。経済的にも、親の感情的にも、自分の精神的にもね。そんなのどーでもいいさと笑えるほど「結果オーライ」な合格を打ち出せたら、こっちのものですけれどね。

 だからもしこの春、「どうしてもあの大学がいい、あの大学じゃなきゃ嫌だ」と、この大学全入のご時勢にわざわざマイノリティーたる浪人になることを選ぶ子がいたら、こう言ってあげたいです。

「どういう結果になろうとも、1年間、自分なりの19歳を全力でやってごらんよ」。

 ひたすら勉強で発酵古漬け状態になってもいいし、結局遊んじゃいましたでもいいし、最後に合格してもしなくてもいいから、その19歳は「あとの人生で他人に語れるほど面白い1年」かどうか? たとえオジさんオバさんの武勇伝と笑われてもいいから、年取った時にでも語れる内容のある一年をやり遂げることができたら、その19歳の浪人生活は「勝ち」なんですよ。どうせやるなら「勝ち」にしようよ、なっ。

文=citrus 河崎 環