『長靴をはいた犬』 久美沙織 <1>

更新日:2015/8/10

「みたくね」。のっぺりと整地されたままほったらかしされている地面。自分もそんな干乾し状態になっているようで、詩帆はいたたまれずに故郷の町を出た。天神通りの美容室で働き始めた彼女の友達は小学5年生のタケフミくん。疎外感を身にまとったタケフミ君をみたとき、あえて自転車でころんで彼に声をかけさせたのだ。ゲームに興じるなかでおもわず口を衝いて出た言葉が二人の距離をさらに近づけた――あの日から4年半の震災小説。

「いいなぁ。被災者って」

 ひとりごとのように言ったのは真ん中の鏡前の客だった。

 六十代ぐらいだろうか。痩せてとがった顔をしている。

 美容室カノンは今日も満員だ。天神通りに面した掃きだし窓から、雨上がりの涼しい風と、初夏の光がさしこんでいる。目隠し兼用の植え込みの緑と小手毬や連翹の花々が、日差しにきらきら輝いている。

 カラリング剤を塗布しながら、寺井さんが「なんですかぁ?」とやんわり問い返した。

「見て。ほら。マットのカズヤ!」客は週刊誌を指差しているようだ。「ハグなんかしちゃって。大サービスだよ」

「慰問ですかね」

「芸能人が来て、いろいろ大変でしたねとか言ってくれて。補償金もらって、家建ててもらって。一生働かなくていいんだよ。最高じゃない。こんな老後、マジあこがれるわ~」

 詩帆は黙ってしごとを続けた。シャンプーした客の肩を揉んでいるところだった。

 隣の客はもっと何かを言っている。寺井さんはあしらいがじょうずだから、ご機嫌なのだ。

 視線を落とすと、窓のサッシの花鉢の陰に土埃が溜まっているのが見えた。ああ。あれは、あとで掃除しておこう。きちんときれいにしよう。きれいにすると、きっと気分がいい……。

「ちょっと、あんた痛い!」突然ぱしんとはねのけられた。

「……あ。すみません。強かったですか」

「そんな力任せにやられたら、折れるつうの」鋭い目でにらまれる。「年寄りなんだから。気ぃつけてもらわないと!」

 まあまあ、どうもどうもすみません。店長の宮田先生が飛んできた。

「この子、見かけによらず力があるでしょう? とってもたよりになるんですよ」

 ほら、と、目配せをされ背中を押され、申し訳ありませんでした、膝にくっつくほど頭をさげる。

 


 

 受け付けは午後八時まで。営業終了後、片付けと掃除をする。床全般は、詩帆の係だ。

 花鉢をいくつもどけ、膝をついて、サッシの溝に取り組んだ。すみずみまでゴミをとりのけていると、店長が気付いて声をかけてくれた。

「そんなとこまで丁寧に……ありがとうね」

「いえ」

「そろそろ慣れた?」

「あ、はい。まあ」

「うん。そんなら良かった」

 まだ何かいいたそうだ。詩帆は立ち上がって店長に向き直った。

「なんでしょうか」

「うん……あのね……鈴木さん。できたら、もうちょっと、にこにこしてくれるといいんだけどな」

 どう答えればいいのかわからない。詩帆が目を落とすと、店長はすぐ、あ、ごめん! 責めてるとか思わないで! と言った。

「ほんと、あなたが来てくれてすごく助かってるんだから。ね」

 いいひとだ。ほんとうにいいひとなのだ。

「ただね。雰囲気暗いのって、お客さんも気にするんだ。もしかしてなにか悩みがあるの? 良かったら、聞くよ? 相談に乗るから」

 べつに、なにもないです。すみません。こんどから気をつけます。

 


 

 美容師は技術職だが接客業でもある。客や同僚にいやなやつだと思われたら、やっていけない。

 クレームついたのかな。あの子なんか感じ悪いって。陰気だって。

 不安が追いついてこないよう、自転車を立ち漕ぎした。コンビニに寄って卵とパンと牛乳を買う。細い坂道は車通りが少ない。道いっぱいに蛇行しながら漕いでのぼることができる。

 自転車置き場に片づけてアパートの部屋を見あげれば、ぽっとあかりがついている。

「ただいま」

 タケフミくんはTV画面にへばりついたまま、おかえりなさ~い、と言った。ゲームの真っ最中だ。爆音と悲鳴が炸裂している。

「近すぎ。目ぇ悪くなるよ」

 返事がない。聞こえないのか。無視しているのか。

 詩帆はため息をついて、エアコンを見に行った。寒いと思ったら18度に設定されている。小学五年生は血が熱いのだろう。

 タケフミくんの母親は寒がりだし、おまえひとりしかいないのに冷房にあまり電気代をかけるなといわれるらしい。詩帆の部屋に入り浸るようになる前は、コンビニやゲーセンで涼んでいたそうだ。

 26度までもどす。

「ごはん食べた?」

 冷蔵庫に卵と牛乳をしまい、缶チューハイをだした。プルリングをあけながらさっきより大きな声できいてみる。

「食いましたー」

「なに食べたの」

「んーと。なんだっけ。あ、おにぎりかな。鮭と梅」

 くずかごを見る。包みなんかない。嘘つきめ。

「ニュース見たいんだけど」

「ええっ? いまぁー?」

 詩帆はちびちび飲みながら黙って待った。タケフミくんはしばらくそのままキュンキュン戦いつづけていたが、やがて、サッと首をまわしてこちらを見た。黙って見つめかえす。くしゃっと鼻に皺をよせた。

「ちょっと待って。もうじきセーブできるから」

 うん。いいよ。肩をすくめる。

 ほんとうは、ゲームを見るのはきらいじゃない。画面いっぱいに様々な仕掛けや罠があって、目をみはる。飽きさせない工夫が満載だ。自分も敵キャラも、激しく、突拍子もなく、カラフルにコミカルに動きまわりつづける。ぼうっと眺めているうちに、心にくすぶっていた何かが、薄れてどこかに消えていく。勇ましく耳あたりのいい音楽を聞いていると、なんだか元気になってきて、なにもかもこのままでもいいような、なにも心配なんかないような気がしてくる。

 タケフミくんはゲームが上手だ。避け、飛び、かわし、殴り、突く。銃をぶっぱなし、凧で飛ぶ。巨大なやいばを振りかざし、右へ左へなぎはらう。ゾンビも怪物も爆裂し、高い得点を叩き出す。 

 あんなふうに戦えたら、きっと気持ちがいいだろうな。

 


  

 暮れるのがいまよりだいぶはやかった頃、コンビニの軒下にたむろしている小学生男子を見た。数人が地べたに尻をつけ、コロッケや肉まんを頬張りながら、片手でスマホをいじっていた。乱雑におかれた高価そうな自転車には、ランドセルじゃないバッグ。テキストを開いて真剣な表情で話しこんでいる子たちもいる。進学塾の帰りだろう。いまどきの子供は、小さいうちからずいぶん遅くまで勉強しているのだ。

 中にひとりだけ眼鏡をかけていない子がいて、両手をポケットにつっこんで、ぶらぶらしている。なぁ誰かコーラ飲まね? おごるから、とかなんとか言っている。アイスでもいいけど。誰かアイス食わねぇ? から揚げは? 気になったのは誰ひとり返事をしようとしなかったからだ。

 どこかで見た顔だった。あとになって、同じアパートの下の階に住む子だと思いついた。ごみを出すとき、ランドセルをパタパタさせながら走っていく姿を見たことがあった。

 次に見たとき、その子は同じコンビニの軒下にひとりでしゃがんでいたのだった。何をするでもなく。ただ、時々、立ち上がって伸び上がって、道の先の様子をうかがっていた。

 ともだちを待ってるんだ、と詩帆は思った。塾にいった子たちの帰りを。

 きっとこないよ。きみにおごってもらいたくないんだ。別の道から帰ることにしたんだよ。

 知らん顔するべきだと思った。よそのおとなに不遇を悟られ哀れみをかけられるぐらいなら、きっと死んだほうがましだ。

 雑誌の並んだ棚ごし、大きなガラス窓の外、うつむく少年の後頭部が見えた。ほっそりとした頸部の後ろ側、骨だか腱だかがくっきりと筋をつくっている。その首を見ていたら、なんだか胸がいっぱいになった。立ち去ることができなかった。少し考え、米の袋を手にとった。

 詩帆の自転車には荷籠がついていない。ずっしりとした米のはいったエコバッグをハンドルにぶらさげると、自転車は倒れた。あっけなく。予想以上のできばえで、詩帆まで巻き込まれて転んで、膝小僧をすりむいた。

 あの子が見ていた。

 きみが知らんぷりするなら、こっちもそうするよ。どうする?

「大丈夫ですか」

 少年は近づいてきて、助け起こしてくれた。

「痛い」

「チェーンとれてる」

 元通りはめようとしてくれたのだが――両手が油で真っ黒になった――うまくいかない。すぐはずれてきてしまう。

「これたぶん、このままじゃ走れないっす」

「どうしよう」本気で困った。

「自転車屋に持ってかないと。もう閉まってるけど」

「あのさ。きみ、もしかして、コーポつばくろに住んでない?」

 同じアパートだと言うと少年は笑い声をあげた。米のはいった袋を肩にかついで、ゆがんでこすれてキーキーいう自転車を支えて歩いてくれた。

 背は小さいし、恋人にするにはいくらなんでも若すぎる。でも、何かが不思議にいっちょまえで、男っぽい。こんなふうにかばってもらうと、なんだかくすぐったくて、照れくさくなった。

 自転車屋、ともだちだから紹介しますよ、と彼は言った。ただで直せっていってやりますよ。

 いいよ。そんなの悪いし。場所だけ教えて。

「いろいろ助かりました。ありがとう」握手の手をさしだした。「あたしシホ。鈴木詩帆っていうの。よろしく」

「マジで? 俺も苗字、鈴木なんですけど。スズキタケフミ」

「どういう字?」

「猛獣のモウと歴史のシ」

「何年生なの?」

「四月から五年す」

 


  

 真夜中を過ぎたころ、タケフミくんの母親が帰ってくる。ほとほと戸をたたく前に、匂いでわかるときがある。映画館通り裏の焼鳥屋で雇われ女将をしているママは香ばしい空気をまとっているのだ。おみやげはもちろん焼き鳥。いつだって十串はある。きょうはほかに、あげだし豆腐、すじ肉の煮込み、トマトのサラダ。漬け物もあった。ゴージャスだ。

 うたたねしていたタケフミくんをゆすると、顔をこすりながら起きて、すぐ食べはじめた。猫か、きみは。

「いつもすみません」

「こちらこそ。おかげさまです。助かってます」

 おつかれさまぁ。

 ビールで乾杯。

 このビールも彼女がケースで差し入れてくれたものだ。自分のほうがたくさん飲むし、店でとるついでだから、少し安いのだという。

 ママの名はキエコさん。年齢はきいてないけれど、たぶん詩帆より十個ぐらい上。目がぱっちりした、きれいなひとだ。

 最初はうろんに思ったらしい。当節、男子だからってまったく安心できない。よその子に妙に優しくするのは、悪い魂胆がある人間かもしれない。

 こっちが助けてもらったんです、と詩帆は説明した。わたし、独り暮らし、はじめてだし。もともとちょっと心細くて。いなかはすごい大家族だったもんですから、親切にしてもらって、とても嬉しかったんです。

 ああ、そうなの。キエコさんはあっさりうなずいた。何か通じるところがあったのかしらねえ。もともとあたしらも余所者なんですよ。ここにきてもう二年たちましたけど。

 この子は昔から父親に似て、面倒みがいいんです。餓鬼大将でね、子分が山のようにいて、海や山を飛び回ってばっかだった。家になんか、ろくに居つきやしなかったのに……町の子になったら、どうだろ。近頃じゃ、ゲームばっか。そういう年頃なんですかね。困ったもんだわ。

 どこから来たのか、なぜ引っ越して来たのか。彼女が言わないから、詩帆も聞かない。

 こちらも、言わない。

 テレビではマツコ・デラックスが怒った顔をしている。音量をしぼってあるから、なにに怒っているのかわからないけれど、彼女はいつだってみんなのかわりに怒ってくれる。

 母子がかえると、小さな部屋が、奇妙にぽっかり広くなる。

 ふとんに仰向けになる。眠ろうとすると、また、思い出す。

 出てきた場所の光景。

 


 

 故郷の町は、がれきを撤去し、こわれた桟橋をなおし、盛り土をし、道路を引いた。砂浜に腰をおろして海を眺めていると、静かで、かわったことなんかなにもなかったかのようだ。視野の端っこで動く小さな建築機械ぐらいなら、かんたんに無視できる。

 晴れて澄みきった青空。おだやかな波。明るくすがすがしくきれいな光景。砂も日差しもあたたかい。幸福な満ち足りた気持ちになる。だが顔を横にむけると、たちまちだいなし、ぺしゃんこになる。見たくない何かがひとつふたつ目に飛びこんでくるから。

「嘘だ。こうじゃなかった!」

 叫びたくなるようなものが。

 醜いみたくねものが。

 こうではなかった。かといって、では具体的に、どこがどんなふうだったのか、どうでなければいけないのか、どんな家があって、誰がどう暮らしていたか。うまく思い出せない。なまじ考えようとすると、忘れたいものまで出てくる。だからしまっておく。蓋をして、重しをのせて、厳重に鍵をかけておく。

 過去は過去。いまはもう、そこはそうではない。

 めちゃくちゃになった土地は片づけられ、のっぺりと整地された。狭い日本の、山がそこまで迫っている海辺では貴重なはずのたいらな地面が、ずうっとほったらかしになっている。

 みたくね。

 堀り返された土がじりじり日差しに焼けていると、ほんとうにみたくね。自分もいっしょに干乾しになって、どんどんみったくなくなっていくようだ。

 なにかだったものが、なんでもないものになって、なんの役にもたたなくなって、そのまま。

 地権とか図面とか代替地とか移住とか、役場が壊滅したとかひとが足りないとか、いろいろ問題はそりゃああるだろう。民主主義の世の中、大勢がかかわることは、よく相談して解決していかないといけない。こんなときこそ助け合わなくちゃいけなくて、お互いさまで、みんな我慢してるんだから辛抱で、譲り合いで、なんでも慌てずゆっくり確実に公平に進めなくてはならないのだろう。でも、

 なにもしていなくても時間はたつ。

 日が暮れる。いのちが、また一日ぶん、すり減る。

 そう思うと、たまらなくて。

 詩帆は出ていくことにした。

 知りあいがいないところにいって暮らすことにした。

 求人情報誌をたよりに何本か電話をすると、未来はあっさり方向転換した。

 居場所をちょっとかえてみれば、世間はあっけらかんと「平常」だった。あんなことなんかまるで全然なかったかのように、のんきに平和に、ふつうの日々を過ごしているのだった。

 「被災地」があることはみんな知っている。とてつもない災害だったことはわかっている。別に忘れたわけじゃない。ただ、そんなにしょっちゅうは思い出さない。

 当事者はまだ地獄の非常事態の真っ只中にいるのだが。

 震災は何年も前のことで、過ぎさったことで、終わったことで、解決ずみ。そうでなくてはならない。だってそうじゃないと、うざいし、つらすぎるから。

 みたくね。

 関係ないなら誰もそんなもの見たくない。直面したくなんかないのだ。

――つづく。

<全3回、週刊更新予定>
 

【作者プロフィール】
久美沙織(くみ・さおり)

1959年岩手県生まれ。
コバルト文庫で活躍したのち、ゲームやコミックのノベライズ、エッセイなども執筆。著書に『丘の家のミッキー』『MOTHER』『新人賞の獲り方教えます』など。近著に『眠り姫と13番めの魔女 プリンセス・ストーリーズ』など。

こちらに収録予定の一編を先行掲載。

タイトル:『あの日から ~東日本大震災鎮魂 岩手県出身作家短編集~』
著者:高橋克彦、柏葉幸子、久美沙織、斎藤純、北上秋彦、
平谷美樹、松田十刻、大村友貴美、石野晶、沢村鐵、
澤口たまみ、菊池幸見
出版元:岩手日報社 
発売日:10月11日予定