『長靴をはいた犬』 久美沙織 <2>
更新日:2015/8/10
「みたくね」。のっぺりと整地されたままほったらかしされている地面。自分もそんな干乾し状態になっているようで、詩帆はいたたまれずに故郷の町を出た。天神通りの美容室で働き始めた彼女の友達は小学5年生のタケフミくん。疎外感を身にまとったタケフミ君をみたとき、あえて自転車でころんで彼に声をかけさせたのだ。ゲームに興じるなかでおもわず口を衝いて出た言葉が二人の距離をさらに近づけた――あの日から4年半の震災小説。
キエコさんでさえ腹がたつんだそうだ。
いつか酔った勢いで、言ったことがある。
三月で、テレビに特番がかかっていた。津波で親をなくした子が悲しみから立ち直ろうとしてがんばっている話をやっていた。
こんな若い子が苦労しているのに行政がだらしないとか、そういうことに立腹しているのかと思ったら、
「プロ被災者とか、モンスター被災者とかいうんだって。こういう子。ずうずうしいよね」
めんくらって、詩帆は返事をしそこなった。
「だってそう思わない? 困ってるひとなんていくらだっている。けど、誰も、いちいち助けてなんかくれないよ。なんでこの子たちばっかり、良くしてもらえるんだろう。日本中に応援してもらっちゃって。そんなの卑怯じゃない。不公平だっつーの」
タケフミくんはくちびるをとがらせて敵をたたきのめしている。
雨がつづくと美容院は暇だ。シャンプーやセットをしてもどうせすぐ台無しになるので、予約をキャンセルするひともいる。
詩帆は通勤の途中、ひどいめにあった。速度を落とさない車に思い切り水たまりの泥水をあびせられてしまったのだ。おかげでこの町のおばちゃんたちが雨でも自転車に乗る理由がよくわかった。ドライバーは道の端をこそこそ通る歩行者などまったく目にはいっていない。自転車はちょろちょろしてじゃまこのうえないが、少なくとも無視はできない。うっかりひっかけたり轢いたりしてしまったら、ただじゃすまない。面倒だ。だから、どんな運転手だって自転車相手に喧嘩は売らない。
わたしも雨でもこんどから自転車でこよう、と詩帆は思った。ハンドルに傘をセットするあの棒のようなものは、いったいどこに売っているのだろう?
「長靴も買わないとかなあ」
ずぶ濡れの靴下を脱ぎ、ダルメシアン柄になってしまったジーンズを拭いていると、寺井さんが驚いたようにいった。
「わたし持ってないよ。長靴。ブーツならあるけど」
「そうなんですか」
「……ていうか、みんな、ないんじゃない? 誰か持ってる? 長靴って」
広田さんも、須賀さんも、店長も、笑って首を横にふる。ないねー。たしかに。長靴はいたのって、小学生までだわ。蒸れちゃうし。玄関も靴箱も狭いし。おしゃれしたい盛りには、長靴とか、ありえないよね。
ないんだ。
詩帆はびっくりした。
長靴、持ってないひとって、いるもんなんだ。
そうか。考えてみれば。道が、どこもかしこもきれいに舗装されていれば。ひどい泥んこ道にならなければ。雪もほとんど降らなくて、除雪された雪が歩道を埋めてしまったりもしなければ。
だったら。
都会では、長靴なんて、持ってなくても暮らしていけるものなんだ。
みんな長靴を持っていたし、しょっちゅうはいていた。こどもたちはもちろん、とうさんも、かあさんも、じいちゃんも、ばあちゃんも。
選別作業所や魚市場の床は濡れてすべりやすい。毎日ホースでじゃぶじゃぶよく洗う。からっからに乾いていることはめったにない。通学に通勤に使う道はバスの通る大通り以外ほとんど砂利道で、舗装がしてあっても古くなって崩れかけていたりして、雨や雪が降ればすぐじゃぶじゃぶの泥道になった。
雨がつづくと焼鳥屋さんも暇になるらしい。十時にもならないうちに帰ってきたキエコさんは、その日いやに機嫌が悪かった。口のききかたがなってないと突然タケフミくんに食ってかかり、とりあわないと、いきなりゲーム機を奪って、壁に投げつけた。
タケフミくんがキエコさんを見るまなざしには、ひとことやふたことではいえない感情が渦巻いていた。
「……あんたそんなだから捨てられんだよ」
親子喧嘩になった。もっぱらキエコさんが叫んだり暴れたり何かをふりまわしたりして、タケフミくんは避けたりなだめたりいなしたりした。もういい、わかったから、もうやめろ、落ち着け。五年生は、低い、男らしい声でじゅんじゅんと言うのだった。なあ、わかってるか。ここ、うちじゃないって。詩帆さんちだ。あんた、ひとに迷惑かけてるぞ。
やがてぺたりと尻をついて泣きだしたキエコさんの腕をとってひきあげながら、タケフミくんは、ごめんなさい、と小声で言った。このひと、たまにこうなるんだ。
「うん。きっと、いろいろあるのよ。おとなには。……ゆっくり寝かしてあげて」
わかった。おやすみ。
めずらしく、はやい時間からひとりになってしまった。割れた茶碗やひっくりかえった飲み物を片づけると、ちいさな部屋がいつもよりなおさら空疎にみえた。
タケフミくんのゲーム機が落ちている。コードがテレビにつながったままだったから、試しにパワーをいれてみた。
明るく華やかな音がして、にぎやかな画面が出た。壊れはしなかったようだ。
夢のジャングルみたいな画面がはじけて、アクションのはやいゲームがスタートした。とめようと思って手にしたコントローラで、キャラが動きだした。画面の中のちいさな怪獣は、歩き、とびはね、ジャンプし、なにかを発射した。ようやく思う方向に動かせるようになったかと思ったとたんにやられて、しおしおと画面の下のほうに落ちていった。ふう。残念。手をやすめようとしたら、なんと、またすぐに復活する。
どうやら、上手なタケフミくんが余分のいのちをたくさん溜めておいてくれたらしい。何度も何度もやられたが、そのたびにあっさり復活する。この怪獣には、無限なぐらいのいのちがある。
やられたら、何度でも、やりなおしができる。
翌朝八時前、どんよりした顔を鏡で見ながら歯磨きをしているとき、ノックの音がした。ドアをあけると、タケフミくんがいた。寝癖のひどい髪をして、うなだれている。ランドセルを背負っていて、横に給食着の袋がぶらぶらしている。ども、といったきり、目をあわせてはまたそらし、ものすごく気まずそうにもじもじしている。
「大丈夫だよ。こわれてない」
「なにが」
「ゲーム」
「あ。そうか」
「いま持ってくる」
「や、いいし、あの」
タケフミくんは声をあげ、詩帆がふりむくと、また視線をそらした。
「いいっす。あずかっといてください。これから学校だし」
「そお?」
「あの……すみませんでした……ゆうべ」
「気にすることないよ」
「迷惑ですよね。ほんとのところ。俺も。あの母親だけじゃなく。毎日、来て。詩帆さん留守のうちから居すわって。ゲームとかしてて。ぜんぜん遠慮してなくて。うざいですよね?」
詩帆はゆっくり玄関にもどった。脱いである靴の上に膝をつくと、少年よりも目の位置が低くなった。
「そんなことないよ。きみとおかあさんがいてくれて嬉しい」
タケフミくんはくちびるをへの字にしている。
「ほんと。うそじゃないよ」
「……」
「誰もいないうちに帰るの、いやだ」
タケフミくんはくちびるをヒクッとさせた。
「いてくれる? 今日も?」
こく、と少年はうなずいた。
「……学校、行きますね」
「うん。いってらっしゃい。がんばって」
ふたりで外の廊下に出た。
「わたし、朝までやってた」
「はい?」
「あのゲーム」
「マジで?」
「うん。だまって借りてごめん」
「そんなのいいですけど」
「最初ぜんっぜん勝てなくてさ。ワールドっていうの? なんか、ちがうとこに行けるでしょ。それがわかって、うんとかんたんなほうに戻って、やあっと勝ったの。そしたら、おもしろくなっちゃって。気がついたら、何時間もたってた。けど、いろいろ、わかんないとこがあんのよ。技のだしかたとか。ぜんぜんできない。……良かったら、きょう、教えて?」
「あー。いいっすよ。攻略本もあるから、持ってきときます」
「いっしょにやってくれる?」
「それにはもう一個コントローラがないと」
「じゃ、買う」
「マジすか」
タケフミくんは大きな口をあけて笑い、ついでに、ため息をついてみせた。
「しごと、休んじゃだめですよ。おとななんだから」
「わかってるよ」
「じゃあ。いってきまーす」
タケフミくんは、元気よく外階段を駆け降りていった。
ゴローのことを話したのは、並んでゲームをやっていたからだ。遊んでいたゲームに、犬っぽいキャラが出てきたからだ。
まだ幼い狼男という設定。ふだんはなまいきなチビなのだが、戦闘モードになると左の後ろ足だけが白い黒犬に変身する。狼にしては、犬っぽい。もしかすると、狼だというのは本人がそう思っているだけで、ほんとうは犬なのかもしれない。骨クッキーを食べると成長するのだが、ごくごく少しずつだ。「俺は強い」「ほんとは強い」「はやくもっと強くなりたい」が口癖。名前はジャンゴ。
即戦力にならないから、タケフミくんはゴミ扱いだ。先々に万が一必要な局面が出てくるといけないからキープはしておくけど、どうせ二軍か、という感じ。
そいつダメ、使えないから、もっと強いのを入れて、と言われて、思わず反論してしまった。
「でも、この子好きなんだもん。うちの犬に似てるし」
あれ、というように、タケフミくんは目をしばたたいた。
「犬、飼ってんだ」
「……ん」しまった。「実家で」
「いいなあ~! 俺もちょー犬欲しい。ここじゃ無理だし、ねだったりしたらキエコまたキレるから言えないけど……おっと来たぞ、左翼頼んます!」
きゅーん。きゅーん。どががががが。ばすんばすん。敵の団体が旋回しながら出てくる難しい局面で、ふたりがかりでも苦戦した。おかげで話がバッサリとぎれた。二回ほど全滅し、コンティニュー機能でなんとかクリアして、ほっと一息ついたとき、思わず口をついて出た。
「ゴローっていうんだ」
「なにが?」
「だから犬」
言いだしたら、とまらなくなった。そう、詩帆は、しゃべりたかったのだ。ずっと、しゃべりたくてたまらなかった。誰かにきいてほしかった。ゴローのことを。
ゴローと自分になにがあったのかを。
「仔犬のころ、父がもらってきたの。真っ黒で、耳の先と、しっぽの内側だけ白い。ものすごくおりこうで、家族を守ろうって気持ちが強かった」
タケフミくんが座りなおす。
「抱っこすると、あったかいの。夜はいっしょに寝たかったのに、こんな小さな子、ひとりで外になんか出すのかわいそうだからっていったのに」
いなかのことで、本家の年寄りが反対したらだめだった。犬は庭につないで飼うもんだ。ガンとしてそう言われたら、はい、というしかない。さもないと、犬なんか飼ってはいけない、かえしてこい、と言われてしまうかもしれない。
勝手口の横にちいさな小屋をたてた。誰か来る気配がするとゴローはちゃんと吠えた。車の音も足音も覚えて、家族には吠えない。知らないひとと、家族と、ちゃんと区別がつくのだった。
あるとき、親戚一同で、山菜をとりにいった。たらの芽も、こごみも、しどけも、沢山とれた。充分とれてしまったので、兄と弟と、年のちかいイトコたちと、もちろんゴローもいっしょに、花をつんだり、川にはいったり、追いかけっこをしたりして遊んだ。とても楽しかった。
その山に、誰かが、うんと昔、トラばさみをしかけていたのだった。古い、ふるい、もう腐って錆びて、完全にぼろぼろになったやつだった。とても大きくて、ギザギザがついていた。そういうのはいまでは完璧に違法だと、おとうさんのともだちの猟友会のひとがいっていたそうだ。
頭まで隠れてしまう草っ原を笑いながら探検していたとき、突然、ゴローがキャンと悲鳴をあげた。
罠にかかったのだった。
見ると、まっくろい鉄のかたまりに噛みつかれていた。
ほかの子はおとうさんたちを呼びにいった。
ゴローは、すごい目になって、牙をむきだしにしてうなった。別の犬みたいだった。もがいて、暴れて、なんとか逃れようとする。自分で自分の足を噛みちぎりそうだ。暴れるたび、びゅうびゅう血が吹く。だめ! じっとして、お願い、落ち着いて! なだめる詩帆の手まで噛みそうになった。こんなのにやられたのが、自分だったかもしれないのだと思うとゾッとした。誰が踏んでいてもおかしくなかった。
イトコたちがおとうさんたちを連れてきた。
大人が何人かがかりでやっとはずし、父が抱いて車まで長い距離を走った。ゴローはまだ興奮がさめてなくて、ひゃんひゃん泣いて暴れたが、やがて、ふいに静かになった。スイッチでも切ったように。くるんだシャツにはずっしりと血がしみ、たまりきってぼとぼとしたたった。父のシャツにも、車にも、ゴローの血がうんとついた。獣医さんについたときには意識がなかった。どうされるのだろうと思うと怖かった。詩帆は父の服の背中のところをつかんで、ぎゅうぎゅうねじった。背中の皮膚がはさまって痛くなるぐらいねじると、父が怖い顔をしてふりむくので、せいいっぱいがんばって睨みかえして、お願い、お願い、と、こころで思った。父はお医者さんに、できるかぎりのことをしてやってください、と言ってくれた。金はいくらかかってもかまいませんから。お医者さんはゴローの傷を洗って縫った。前肢の毛を剃って、蝶みたいなかたちをしたものをくっつけた。点滴のセットを用意して、使い方を説明した。
和室の真ん中に養生用の青シートを敷き、毛布を敷き、一晩じゅうずっと点滴をした。詩帆は夜通しそばについていた。ずっと見張っていようと思った。ちゃんと、一滴一滴、落ちているかどうか。苦しんでいないか、痛がっていないか。そのうちおしっこが出たので拭いてやった。おしっこはあたたかくて、ゴローがちゃんと生きている証拠だから汚いと思わなかった。嬉しかった。もっとおしっこしてゴロー、そう思った。もっともっとして。うんとしていいんだよ。わたしがきれいにしてあげるから。
ごはんも食べず、学校にもいかず、ずっとゴローにつきそった。つかれて、よくわからなくなって、まぶたが重くなって、うつらうつらして、ハッとしてとびおきた。起きてられなくなって、横になった。ゴローと顔をそばで向かい合わせにして。鼻や、おでこや、前肢に、手をのばしてさわった。なんてきれいでかわいいんだろう。なんて素敵な子なんだろう。二日めの朝、目を覚ますと、ゴローも目をあけていた。澄んだきれいな瞳だった。なにも疑っていない、信じきってる瞳だった。そうだよ。わたしはここにいたよ。ずっといたよ。詩帆は笑った。鼻面に手をのばしてさわると、ゴローがぺろりとなめた。
もう一度獣医につれていって診てもらった。だめになった足の先の部分は、切り落として、縫ってもらわなければならなかった。さもないと、壊疽になって、もっとこわいことになってしまうのだそうだ。しかたない。ゴローはいのちをとりとめた。それでよしとしよう。
詩帆は、もう安心だからちゃんと学校にいけと叱られてしまった。
ただの棒ぎれのようになった足に、油紙と包帯とテープ。元気になったゴローは、前と同じつもりで、ふつうに動きまわりたがる。バランスをくずして、よろける。すると、痛い足先が地面をかすめる。血もにじんだ。包帯が汚れた。いっそ、もっと思い切り短く切ってもらったほうが良かったんではないかという声も出たぐらいだ。
じょうだんじゃない。
兄と弟に手伝ってもらって、何個も何種類も義足をつくってみた。なくなった足先のかわりになりそうなものを、いっしょうけんめい工夫した。竹筒を骨にして粘土でそれらしいかたちを盛り上げたもの。木を彫ったもの。靴下に詰め物をしたもの。プラスチックと革でつくってみたもの。
さあ、おいで。こんどはこの靴だよ。詩帆がいうと、ゴローはおとなしく耐える。へんなものをくっつけられるのを、辛抱する。だが、あいにく、どれも気にいらなかった。
ポインター犬がするように足をちょいと持ち上げて、それきりかたまってしまったり。どうしてこんなことするんです、みたいな情けない顔をしたり。いやそうにあとじさってあとじさって、壁にぶつかってへたりこんだり。噛むおもちゃがわりにして、さんざん歯形をつけて、とうとう食べてしまったり。いまにどれかきっと、ぴったりいいのができる。なにかゴローにあうものがみつかる。そう思ったが、だめだった。ゴローは義足にはどうしても慣れなかった。
散歩にでかけるときには、長靴をはかせた。いやがっても、無理やりはかせた。万が一、傷にばい菌がはいって恐ろしいことになるのがどうしてもいやだったのだ。
親戚の赤ちゃんのおふるの黄色い長靴がサイズ的にちょうどよかった。ほかのものはあんなに嫌ったゴローが、長靴はなぜかはやめにあきらめた。もしかすると、意外と気にいったのかもしれない。もしかすると、長靴があると、ちゃんと踏ん張りがきいてよかったのかもしれない。
鈴木んちでは、犬に長靴はかしてる。
親戚やご近所には笑いものにされたけど、どうでもいい、気にしなかった。
長靴をはいた猫だっているのだ。犬がいたって、別にいいじゃない。
「へえ……おもしろいな。それ、みたかった。写真とかないの?」
タケフミくんが聞いた。
「……ない」
前は携帯の待ち受け画面にしていた。でも、その携帯はあの日なくした。
「そんな話してると、あいたくなるんじゃない」
「だっていないから」
詩帆は言った。
「ゴローは、もういないんだ」
「うそ」タケフミくんはショックをうけたような顔をした。「なんで? 結局、死んじゃったの?」
「震災で」
それだけ言って黙ると、タケフミくんは、えっ、と目を丸くした。
「詩帆さんって、そっちのほうのひとだったの?」
返事をしなかった。
できなかった。
頭の中、さまざまなことが、右から左からざんぶりざんぶりやってきて、ガツンガツンぶつかった。うわあんうわあん。耳がふさがる。真っ黒な恐ろしい渦にのみこまれ、どこかにからだを持っていかれてしまう。
勤務先は根こそぎなくなった。後輩といっしょになにかのパネルにつかまって二時間ぐらい流された。たまたま、半分水につかった状態だった余所の家のベランダに流れ着いて、ひっかかった。そこにいたひとたちがひっぱりあげてくれなければ、たぶん助からなかっただろう。そのままその場で夜を過ごした。朝になって、あたりが明るくなってくると、どれだけとんでもないことになったのか、改めて思い知らされた。そういうふうだったはずなのだが、ほんとうのところ、詩帆はあまりよく覚えていない。記憶はきれぎれで、飛び飛びで、たしかに覚えていたところが、そのうちわからなくなってしまう。やすりでもかけたみたいにざらざらになってみえなくなってしまう。
幸い家族はみな生きていた。家も、めちゃくちゃにはなったが、建っていた。水も電気ももちろんだめだったが、屋根があり、柱があり、壁があった。二階はそのままで、居間や台所にも、ふだんのおだやかな日常生活の痕跡がそのまま残っている部分もあった。それを見たときの、あの気持ち。恥ずかしいような、申し訳ないような、やましいような、あのいたたまれない気持ち。
行方不明になった大勢、亡くなった大勢。大切なものを永遠に失ってしまった大勢。何をどう考えればいいのか。そのときも詩帆にはさっぱりわからなかったし、いまになってもよくわからない。
避難所である学校の体育館にご近所が全員行くことに決まった。ゴローをどうしようということになった。
よそのひとと狭い場所でくっつきあって暮らすことになる。いつまでそうなのか誰にもわからない。犬が嫌いなひともいるし、怖がるひともいるし、アレルギー持ちのひとだっているかもしれない。犬を連れていくなんて非常識だ。こんなときは、わがままをいってはいけない。みんな不自由をしのんでいるのだから。譲り合い。かばいあい。助け合い。
もちろんそうだ。そんなことはわかっている。じゅうじゅうわかっている。だから。
「わたし、行かない」
詩帆は言った。
「ゴローと残る。家にいる。配給は、欲しいから、ときどき避難所に顔を出すと思うけど」
そんなことできるわけないでしょう、と母は言った。
まだ余震もあったし、悪い噂も囁かれた。災厄に乗じて、ものを盗むなど、好き勝手なことをするひとが横行していると。
「第一、まだ寒いよ。おまえのためにストーブ一台くださいなんて、そんな贅沢とてもいえないよ」
「大丈夫。毛布もあるし。ゴローとくっついて寝てれば、あったかいから」
まず、まず。どんなふうだか、ちょっと行ってみるべ。それから考えたってよかろう? ご近所の親戚の誰かが詩帆の腕をとって、背中をおして、さあ、というように動かした。言い返したかったが、母が祈るようなかっこうをするので、しかたなく黙った。誰かが、どこかに向けて動きだした。みんなぞろぞろついていった。がれきの中を、かたまりになって歩いた。目にしてしまったら一生忘れられないだろうものを、もうこれ以上見たくなかった。詩帆はうなだれ、顔をあげず、前のひとの背中をみたまま歩いた。ほんとのときどきだけ、ちらっとあたりを見た。景色は知っているものとはかけはなれていた。避難所まであと少しというところで、ふと気付いた。
「ゴローは?」
見回した。いない。どきんと胸がはねた。なんでいないの。なんで。目をはなしてしまった。手をはなしてしまった。ゴローの首輪につながったリードを、わたしはいつまで持っていた?
「ゴロー!」
すぐにとってかえした。誰かにつかまりそうだったけれど、かいくぐって走った。名を呼びながら。がれきの中をどんどん走った。叫びながら走っていくと、あちこちから、ひょこひょこ顔が出た。大勢と目があった。みんな痛ましそうな顔をしていた。みんななにかをなくしていた。なにかを必死でさがしていた。どうしても失いたくないものを、あきらめられずにさがしていた。
「ゴロー! ゴロー! ゴローぉ!」
家のあたりまでもどった。いつも散歩でいくあたりにいってみた。行けるところは、行けるかぎりどこまでも走った。出会うひとごとにせきこんでたずねた、三本足の犬みませんでしたか。黒い犬で、しっぽと耳は毛がふさふさなの、みませんでしたか。なんだ犬か、と怒りだすひともいた。こんなときに犬のことなどと舌打ちして説教するひともいた。すみませんごめんなさい。謝って、また走った。
――つづく。
<全3回、月曜日更新>
【作者プロフィール】
久美沙織(くみ・さおり)
1959年岩手県生まれ。
コバルト文庫で活躍したのち、ゲームやコミックのノベライズ、エッセイなども執筆。著書に『丘の家のミッキー』『MOTHER』『新人賞の獲り方教えます』など。近著に『眠り姫と13番めの魔女 プリンセス・ストーリーズ』など。
こちらに収録予定の一編を先行掲載。
タイトル:『あの日から ~東日本大震災鎮魂 岩手県出身作家短編集~』
著者:高橋克彦、柏葉幸子、久美沙織、斎藤純、北上秋彦、
平谷美樹、松田十刻、大村友貴美、石野晶、沢村鐵、
澤口たまみ、菊池幸見
出版元:岩手日報社
発売日:10月11日発売予定