ほのかにゆがんだ「世界」でのゆるやかな許し
公開日:2013/4/3
80年代にオフビートでほのかに可笑しいCMを作り異彩を放った著者は、十数年前から小説を発表し始めた。
当初はやはりシュールな可笑しみをもった、しかし人間の存在の根底をあらわにする独特な作風だった。それがここのところにきて、静謐ともいえる空気感をたたえた文芸作に姿を変えている。
表題作もそんな文芸タッチの1編。ただし奇妙な味わいはそのままに残されている。
17年前に逝去した母について、忘れていた記憶をゆっくりと掘り起こし確かめながら、みずからの老いと死に重ね合わせる「わたし」の日常を描いた作品である。
だが、「わたし」の住まう世界は微妙にゆがんでいる。冒頭、どこかの大学で映像表現の講義をするとき、「わたし」はなぜかてっぺんにアンパンマンのついた帽子をかぶっている。学生もみなアンパンマンかドラえもんの帽子をかぶっているらしい。あまつさえ「わたし」は「こないだののび太の帽子はないの」などと訊いている。もちろんそれは授業とはなんの関係もない。
待てよ、この世界は私たちの暮らしているそれとどこかずれている、読み手はそう気づくのである。
さらにこの授業は自分のもっている最初の記憶を深い過去に潜り込んでつかみ、浮かび上がってくる趣旨の時間だ。学生たちが作業に打ち込むのにあわせて、「わたし」もまた最初の記憶を確かめるべく、今はもうない生家を思い出そうとする。
それは、焼失した家屋を再建するため、近所の質屋から回してもらう家のパーツ、玄関や、居間や、廊下や、屋根やらを組み合わせたつぎはぎだらけの家だった。
ここでも、やはりこの「世界」はゆがんでいる。
つまり、ここはそういう場所なのだ。だから、作品の後半に亡き母がフット現れ、「お父さんもあたしも若くて、一生懸命生きてた。一生懸命生きないと楽しくないからね。もう一回生きたいな、四人であの頃を」とつぶやくとき、にせの記憶でありながら、そのひとことは強いリアリティをもって、「わたし」をなだらかな肯定の中に浸していく。
小説とは虚構であるが、虚構の中でしか解き放たれない鬱屈というものがあると痛感させられる。ほかに中編「日記と周辺」をおさめる。
「わたし」もへんてこな帽子をかぶっている授業
つぎはぎだらけの家
つぎはぎだらけの家
(C)川崎徹、講談社