死者をめぐる家族の彷徨と救済の物語
更新日:2013/4/15
「兄妹、五人あって、みんなロマンスが好きだった」というのは、太宰治の佳品『愛と美について』の書き出しだが、その顰に倣うなら、本書は「兄妹、四人あって、みんな死にとりつかれていた」といってもいいのではないだろうか。
とにかく死の話なのである。
男は男の子をひとり、女は兄と妹を、それぞれ連れ子にしたまま結ばれて新しい家庭を持った。そのままいつまでも幸せが続くとはどこの空、突然長男が雷に打たれて亡くなり一家には黒い雲が覆いかかる。黒い雲は長男の死そのものの化身ではなく、いつまでも深い喪失感から逃れられない母が次第にアルコール中毒となり、うつつの境もつかない様子で、母を気づかいながらみずからもうつろな穴を埋められない兄妹たちをも引きずり込む、「いつまでも死なない死」のせいなのだった。
この小説は、兄妹それぞれの視点から、そんな家族の危機と救済を描こうとする。
と書くと、暗いのである。真っ暗じゃねえのこの小説。と、そういうことになる。
なるのだが、そこが小説の、というか山田詠美のマジック。切なく、なまめかしく、エピソード同士は遠くこだまして、美しいレクイエムとも思える裳裾を長くひく。
章を変えて語り手が兄妹ひとりひとりにバトンタッチしていくとき、まず文体のかき分けに誰もがため息をつくだろう。
もちろん文章もうまい。うまい文章というのは華麗なレトリックのことでも、散りばめられた数多のボキャブラリーのことでもない。普通にすらすら読めるのだ。すらすら読めて、でもちゃんと意味が体の中に入ってくる。入ってくるからにはその文章にはちゃんと「意味」が含まれているのである。しかもよく考えてみると、その「意味」はけっこう深くて複雑な考えになっている。そういう文章が本当のうまい文章なのである。
死んだ人はずっと死に続けている。死を最大の不幸だとすると、この死をどうにか処理しない限り生きている人の幸せはかないっこないのだ。たいていは「忘れる」という手を使う。完璧に忘れなくとも、この現実から一歩引っ込んだところへ死者の思い出に引っ越してもらい、結婚したり、子供が生まれたり、昇進したり、時々はイチゴなんか食べたりする喜びを大事に受けとめて今日を過ごすことになる。
忘れられない場合はどうするか、自分も死んじゃうという道もある。死んじゃえば何も分からなくなるので、これは究極の「忘れる」算段でもある。
でも、とにかく何でもいいから生きていよう、そういう考え方から本書は書かれいてる、と思う。東日本大震災を遠く思うところからこの小説は書かれたんじゃないか、と勝手に思った。
物語はいわば幸福な死を迎えた曾祖母の思い出から始まる
兄は突然の、理不尽な死に斃れる
兄の死は家族みんなの心に大きな穴を開けた
(C)山田詠美/幻冬舎