歴史が、ある時、彼らの力を必要とした。そして次に生贄の役目とした
更新日:2011/9/5
新選組と会津藩 彼らは幕末・維新をどう戦い抜いたか
ハード : PC/iPhone/iPad/WindowsPhone/Android | 発売元 : 平凡社 |
ジャンル:趣味・実用・カルチャー | 購入元:eBookJapan |
著者名:星亮一 | 価格:540円 |
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幕末の会津藩や戊辰戦争など、幅広い著作を持つ歴史小説家である星亮一の実用書。
新選組と、彼らを支えた会津藩。その二つの組織がどのような理念で幕末を生きたのか? 京都や大阪の人々は彼らをどう見ていたのか? そしてなぜ新選組は分裂し、会津藩は賊軍の汚名に泣いたのか?
それらが丹念に語られている著作である。
当時、新選組は会津藩預かりの身。つまり会津藩は新選組の管理者であり、またスポンサーであったが、関係はそれだけではない。舞台と時代が2つの組織をより特異な関係に結び付けていたのである。
幕末の時、会津藩は京都守護職だった。今でいえば警視総監の立場になる。そして、京都では尊皇攘夷を叫ぶ過激的な浪士達が世情を不安に陥れていた。その京都の治安を維持するため、関東から近藤勇、土方歳三など後に新選組となる浪士達を実働部隊として呼んだのである。浪士には浪士で対抗させたのだ。
そして、時代は8月18日の政変を迎える。薩摩藩、会津藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放したクーデターが起きる。この事件を契機に、会津藩は浪士組を正式に新選組とする。新選組は特殊警察部隊へと組織変更され、切り捨て御免の特権を与えられた。この組織形態と強行的な警備活動が現在の新選組の印象を強く残している。
だが、新選組は池田屋事件まではその機能を発揮していたが、薩長同盟が成立した時にはその力を維持できなくなっていた。孝明天皇崩御後、新選組と会津藩は旧幕府勢力と見なされ、薩長新政府軍の仇敵と見なされたのである。そして新選組は戊辰戦争で散り、会津藩は廃藩置県を前に明治政府民政局による直轄地となった。
新選組と会津藩が幕末をどう戦い抜いたか?
結果的には徳川幕府に対して、尽忠報国の志に殉じたのである。その志を、我々は客観的に顧みなければならない。
目次
会津若松にある近藤勇の墓石
清河八郎の肖像
近藤勇の肖像
新選組屯所の跡地
京都会津藩本陣金城光明寺 (C)星亮一/平凡社