存在の奥底まで届く悲しみは人々を深く癒やす
更新日:2012/3/2
息子はひきこもりで家庭内暴力、妻は不特定多数の男と不倫をくり返し、自分もとうとうリストラの憂き目に会い、家族はバラバラ。
「死んじゃってもいいかなあ、もう」
そんなつぶやきももれる夕刻に、もうなんの希望もなくなったまま投げやりな絶望感に沈みながら駅のロータリーにあてもなくたたずんでいたとき、その真っ赤なワゴンは背後から静かにやってきた。助手席のドアが開き、小学生くらいの少年が顔を出すと、
「遅かったね。早く乗ってよ、ずっと待ってたんだから」
そう声をかけてきた。
理性よりも、何かに引き込まれるようにしてワゴンに乗り込んだ「僕」は、死者とおぼしき橋本父子の同乗者となり、家庭を壊さないために最も大切だったはずの3つの時間に連れ戻されることになる。
だが、それらの過去の時点で「僕」にはなにも修復しやり直すことはできない。ただなにが過ちだったのかを確認し、家族の絆が掛け違っていくのを悔やむことしか許されないのだ。ただでさえ絶望の淵にあえぐ「僕」の慟哭する姿は「切ない」「つらい」では言い表せない深い悲しみを読者の心の中に投げかける。
もっとも感動的なのは、この時間旅行の中で「僕」が「僕」と同年代の時の父と出会い、親交を深めるエピソードだ。私たちは誰でも人生のある若い時期に、両親にも自分と同じ年齢の時があったのだということにふと気づき、なんだかむずがゆいような気持ちに襲われるときがあるものだ。「僕」はいつも強く自信に満ちて自分勝手だった父が嫌いだったが、同い年の父とともに旅をしてみると、父は普通の人よりも少し世慣れて知恵もあり、どうかすると剽軽な大人ですらあったように見えてる。
なにをかえることもできないこの時間旅行は、妻や子や父との「僕」のつきあい方を微妙にしかし確かに更新してくれる。「癒し」というのか、決定的な喪失感や、わだかまる絶望感や、突き刺さる取り返しのつかない生の実感や、それら胸を打つ強い悲しみの感情を、知らないうちに読者のしなやかな呼吸へと変換してくれる小説である。
悲しみというのは決してマイナスの情動ではないのだ。
「僕」はもう生きることに徹底的に疲れている
「僕」の父はいま長い死病の床についている
そのワゴンはひっそりと「僕」の元へやってきた (C)重松清/講談社く