女性ならではのうつろう心を言葉に定着してみせた奇蹟のような太宰の「女語り」
更新日:2011/11/24
太宰治は「女語り」の作家だといわれる。女性が語り手になった作品に傑作、というか大傑作、文学史に残るような小説が多いということである。もっとも、太宰の作品は全部文学史に残っちゃうのだけれど、僕にいわせたら。ま、それはそれとして。
たとえば、彼の代表作とうたわれる「斜陽」も「女語り」で綴られている。ただし太宰の「女語り」とは単に女性が語り手をつとめているという意味ではない。女性らしい言葉を上手に使っているという意味ではないのだ。女性の感じ方を、言葉の意味を超えたところで、なにか息づかいのようなものとして伝えてしまう、そういう意味である。
本書は、その太宰の「女語り」の短編ばかりをぎっしりと詰め込んだ、宝箱みたいな1冊だといえる。ほんとにこれ、枕元において寝てもバチは当たるまい。
表題作の「女生徒」、一度読んだことのある人なら、なんといって評したらいいのか当惑するしかない気持ちを分かってもらえるだろう。ひとりの女生徒、今でいうとちょうど女子高生にあたるくらいの年齢でしょう、朝起きてから夜眠りにつくまでのまるまる1日の出来事を、なめらかというのも恥ずかしくなるような生き生きとした文体で語っていく、それだけの短編。
それだけがどれほど凄いことか。
たとえばひとりの人間が1日に頭の中に浮かべだ考えを追いかけて文章にしてゆくとき、一番簡単だしだれでもやるのは喜怒哀楽を、誰になにされてどうだったと「意味」で描き出していくことか、あれしたいこれしたくないって望みや嫌悪や失意やらを「理屈」で書いてゆくこと。でも太宰はもっとも困難で、そして最も「そこに生きている人がいる」のを感じさせる文体をとっているのだ。とめどなく移ろう感覚と感性を、大胆に同時に繊細に文字にしてみせる。
この本だけは、ぜひお読みいただきたい。
太宰は、書き出しも天才的にうまい。読み始めたとたんにやられてしまうのだ
です、でした、だもの、しちゃった、なのでしたなど、文末の処理を含めて言葉遣いの多彩さと美しさに比類がない
女性が感じる恥や、憤りや、口惜しさの表現も実に繊細