日本人はいつから「悪いのは私じゃない」と言うようになったのか

更新日:2015/5/25

悪いのは私じゃない症候群

ハード : 発売元 : ベストセラーズ
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著者名:香山リカ 価格:※ストアでご確認ください

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 いかばかりほど前であったろうか、お笑いトリオ「ダチョウ倶楽部」のギャグに「俺じゃねえよぉー」というのがあった。最初は、オチがうまくはまらなかった時に、それは「俺のせいじゃないよ」と訴える言い訳ギャグであったが、やがて独り立ちして、前後の脈絡もなくカマされるようになり、上島竜兵のお馬鹿加減と言葉そのもののナンセンスで無責任な切れ味を、どちらかというと、わざとハズしたタッチで、鋭くでなく、鈍ぅくかもし出していた。この鈍くというあたりが「ダチョウ倶楽部」の持ち味なんであろう。

 本書のタイトルを目にした方は、誰しもそんな上島の無駄に上気したかんばせを思い浮かべたのではないか。これで著者が上島竜平なら、えたりというところでもあるが、世の事象について数々の分析をなしえた香山リカ氏だからはまり役といえるのではないか。

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 世の中には2種類の人間がいる、という決めぜりふは今どき陳腐の極みにしても、ことにそれが悪いやつと良いやつ、なんて結びにでもなろうものなら、噴飯物で、心ある人なら怒り出したとしても私は驚かない。悪い人間と良い人間というのは、相対的な価値判断であって、両者はグラデーションでつながっているからだ。ロトで大もうけした人は大損した人から見れば悪いヤロウだ。でもその大枚をせしめた兄さんもおしなべて言えばロト運営者からちゃんと搾取されている。体制は巨悪なのである。

 しかし、ひるがえって言うのなら、人は常に、悪く思われたり、よく思われたりして生きていくのである。当然悪く思われるのは本意ではないわけで、何かことがあれば、責任回避もしてみたくなる。「悪いのは私じゃない」、とこう来るのである。

 香山氏によれば、少し前までの日本人は、「和をもって尊しとす」じゃないけれど、他人との関係や場の空気を悪化させないために、とりあえず「身を引く」処方を持ち合わせていたという。「とんだ粗相をいたしまして」と言えば、相手も「いやいやこちらこそ」と、押せば引く引かば押すの手加減で世の中を渡っていた。この時代認識があたっているかどうかはさておき、このところの大学生にレポートや論文を出させると、ネットからのコピペがあふれるらしい。

 コピペは必ずしも悪くないとコメントする香山氏の判断もどうかと思うのだったがそれもまたさておき、その学生に注意を促すと、昔なら素直に謝ろうものを、ネットの文章は誰のものでもないからどう使おうと勝手だ、とか、ひどいときには、こっちはバイトで忙しいんだ、これ書くのにバイト休んでる。もしクビになったら責任取ってくれるんですか、たしかにこれはひどい。

 自由にコピペできるネットが悪いか、あるいは課題を出す先生が悪い、なんつったって俺が悪いんじゃなぁい、そういう論理だ。

 この手の責任転嫁というか、他罰の論理が、学生の間だけでなく、世間に広くはびこっているらしい。

 たとえば会社。会議に出ようとすると緊張のあまりパニック発作が起きる。好きな釣りに出かけるときはまったくもって健康そのもの。ということは、環境がなすストレスが発作の引き金となっているにしろ、完全にまわりだけの責任であって、自分のキャラクターや生活態度には悪い点などないと決め込む。

 しかしなんです、香山氏も本の中で指摘しているように、かつて土井健郎氏の『甘えの構造』で、日本人は相手の好意に甘えてより掛かり合うことで社会をなり立たせてきた、それは逆から言うと自己というものを西洋人のようにしっかりと持っていないからだ、という説がありました。

 ま、当時はなるへそと思って深く反省したものですが、自己を確立せよと叱咤され、西欧並みに社会がギスギスしてきたから今度は自己を引っ込めろといわれても、カタツムリの目玉じゃあるまいし、そう安々と出したり引っ込めたりできるもんですかって、悪いのは俺じゃねぇよー。


著者の身近な病院にも影響が

児童虐待の一面でもある

私が悪いから鬱病になったんですね? というのはよく理屈の分からない言い分

私が悪うございましたの歴史